人間の業 ― 綺麗事の裏側 第93話:第1回 「癌」と聞いた瞬間、頭に浮かんだもの
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2026-10-01 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第93話副題:知っているつもりが、いちばん怖い「そういえば……」久美さんが、ふいに口を開いた。いつものように、朝の他愛もない話をしていた。以前、訪問介護に来てくれていた女性のことだった。彼女は一度、介護の仕事を辞めている。庭園管理の仕事に誘われ、新しい世界に飛び込んだのだという。ところが、慣れない仕事は思った以上に厳しかった。一年半ほど頑張った末に、とうとう辞めてしまった。「やっぱり、長年やってきた介護が自分には一番合っていたんでしょうね」そう言っていた。幸い、以前の仕事ぶりを知っている人から声を掛けてもらい、今度は施設介護の仕事に就いた。そんな彼女から、先日、一通のメールが届いた。内容を読んで、私は言葉を失った。可愛がっていた犬が、十四歳になった。もう自分では食事を取ることもできない。ほとんど寝たきりになってしまった――。長年一緒に暮らしてきた犬である。飼い主にとっては、単なる「ペット」ではない。家族なのだ。その話から、いつの間にか保険の話になった。「もし自分が癌になったら……」そんなことを考えたのだろう。そして、久美さんの口から何度も出てきた言葉があった。「放射線治療」「放射線を当てれば……」「保険で、放射線治療は出るのかな」私は少し考え込んだ。放射線治療そのものが間違っているわけではない。今でも、癌治療の重要な柱の一つである。ただ――。どうも話を聞いていると、頭の中にある「癌治療」が、かなり昔のものに見える。癌と診断される。手術をする。場合によっては放射線を当てる。そして抗がん剤。そんな一昔前のイメージで止まっているように感じた。しかし、現在の癌治療は、もっと複雑になっている。そして同時に、昔よりもずっと細かく患者に合わせるようになっている。癌は、ただ「肺癌」「胃癌」「大腸癌」と名前を付ければ、それで治療方法が決まる病気ではなくなっている。どの臓器にできた癌なのか。どの程度進行しているのか。転移しているのか。癌細胞がどんな性質を持っているのか。場合によっては、遺伝子にどのような変化があるのか。そうした情報を調べたうえで、治療方法を選ぶ。国立がん研究センターも、現在の癌医療について、癌の種類だけでなく、遺伝子変異などの特徴に合わせて治療を選択する「個別化治療」が行われていると説明している。「昔は、癌といったら抗がん剤だったんでしょう?」久美さんが言った。「それも今では、ずいぶん変わってきていますよ」私はそう答えた。もちろん、昔ながらの抗がん剤がなくなったわけではない。細胞障害性抗がん薬は今でも重要な治療薬だ。しかし、それだけではない。癌細胞の特定の分子を狙う分子標的薬。免疫の働きを利用して癌を攻撃する免疫チェックポイント阻害薬。癌の種類や性質によっては、こうした薬を使うこともある。さらに、手術だけで終わるとは限らない。手術の前に薬 物療法を行うこともある。手術の後に再発を防ぐための治療を行うこともある。放射線治療と薬 物療法を組み合わせることもある。つまり現在の癌治療は、「手術か、放射線か、抗がん剤か」という三択ではない。それぞれを患者の状態に応じて組み合わせる。それが「集学的治療」と呼ばれる考え方だ。「じゃあ、放射線治療は昔ほど重要じゃないの?」久美さんが聞いた。「いいえ。むしろ今でも重要です」私は首を横に振った。放射線治療は、手術、薬 物療法と並ぶ癌治療の大きな柱である。しかも、癌を治すことを目的として使う場合だけではない。癌によって生じた痛みなどの症状を和らげる目的で使われることもある。ただし――。「放射線治療があるから、この保険に入っておけば安心」という話にはならない。そこが問題なのだ。治療方法が変われば、必要になる費用も変わる。そして、保険契約の保障内容も変わる。昔聞いた「癌保険」の知識だけを頼りにしていると、いざというとき、「こんな治療まで対象になると思わなかった」ということにもなりかねない。久美さんは黙っていた。私は続けた。「だから、癌について知ることと、癌保険の保障内容を確認することは、別々に考えたほうがいいんですよ」癌治療の世界は、私たちが思っている以上に変わっている。そして、その変化は、病院の中だけで起きているのではない。患者がどの治療を受けるのか。どんな薬を使うのか。入院するのか、通院するのか。そして――自分が加入している保険から、何が給付されるのか。癌という病気を考えるときには、そこまで知っておかなければならない時代になっている。久美さんが、ぽつりと言った。「私、癌って聞いたら、昔のことしか知らなかったわ……」私は答えなかった。その言葉こそが、今日の話の始まりだった。>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。



