人間の業 ― 綺麗事の裏側 第50話:責任のなすり合いと、綺麗事で保身を図る歪んだ連鎖
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2026-08-14 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第50話(前編)副題:何度も何度も追突されて……何が目的か本当に理解できない六月二十六日の朝。東名高速道路の上り線は、夏の陽射しを浴びて静かに流れていた。牧之原サービスエリアを過ぎたあたり。静岡県西部に住む夫婦――夫の健一(三十六)と妻の美咲(二十九)は、横浜での結婚式の衣装合わせに向かう車中にいた。助手席の美咲が、スマホの画面を見せながら微笑む。「このドレス、絶対似合うよ。……やっと、ここまで来たね」健一もハンドルを握りながら、小さく頷いた。苦労を重ね、ようやく迎える晴れの日。希望に満ちた一日になるはずだった。バックミラーに映る後ろの景色。普通の白い乗用車が、少しずつ近づいてくる。最初は、その程度の認識にすぎなかった。衝撃は、突然だった。――ドン。車体が前に強く押し出される。健一は反射的にブレーキを踏んだが、間髪を入れず二度目、三度目の衝撃が襲った。「何なんだよ、これ……!」ミラーを凝視する。後ろの白い車は、アクセルを緩める素振りすら見せず、何度も何度も激しくぶつかってくる。最初は居眠り運転かと思った。しかし、追突は止まない。約一・七キロにわたって、執拗に繰り返された。「止まろうとしても……向こうがまったく減速しない!」健一の声が恐怖で震える。美咲はシートベルトを固く握りしめ、悲鳴を上げた。「嫌……! 何が起きてるの!?」追い越し車線へと押し出され、後方から来た大型トラックに接触した瞬間、車は弾き飛ばされるように路肩へ転がった。金属が凄まじい音を立てて軋む。ガラスが粉々に砕け散る。トランクに積んでいた自転車が、飴細工のようにぐにゃりと曲がった。車は大破した。夫婦は首と腰を強く打ち、病院へ搬送された。命に別条がなかったのは奇跡と言ってよかったが、車の被害額は一千万円近くに及んだ。あの白い車は、二人を路肩へ追いやると、何事もなかったかのように走り去っていた。病院のベッドで、健一はぼんやりと天井を見つめていた。「何度も何度も追突されて……何が目的だったのか、本当に理解できない」聴取に訪れた警官にそう語ったとき、その声は掠れていた。死の恐怖が、いまだに指先にこびりついている。事故ではなく「故意」だったと知った瞬間の、あの底知れない無力感。後日、身柄を確保された加害者は、岡山県に住む六十歳の男――田村義男だった。無職。容疑はひき逃げと傷害。田村はその日だけで、高速道路上を中心に複数の追突事故を重ねていた。警察の調べに対し、田村は認否を明らかにしようとしなかった。しかし、彼の辿ってきた過去は、静かに真実を語り始めていた。三年前に妻を亡くしてから、田村の時間は止まっていた。子供は独立し、音信不通に近い。日がな一日、狭いアパートで酒とタバコに溺れる日々。薄暗い部屋には、一日中テレビの音だけが空しく響いていた。やがて免許更新の時期が訪れ、田村は指定された教習所へ「高齢者講習」を受けに行った。だが、そこに法的拘束力のある厳格な適性審査など存在しない。ただの事務的な制度だ。認知症の有無や運転適格かどうかといった判断は、現場の教習所に事実上丸投げされているのが現状だった。職員は丁寧に説明し、形式的な簡易テストを行うだけ。田村はそれに「合格」した。しかし、そのわずか数日前――。田村は高速道路の進出口を間違えて進入し、逆走を起こしていた。異変に気づいた係員に制止されるまで、危険な状態のまま走り続けていたのだ。「つい……頭がぼんやりしていて」本人はそう弁明したという。だが、その事実が教習所に共有されることはなかった。仮に知っていたとしても、教習所の側には強制的に免許を取り上げる権限などない。認知能力の衰えは、新規取得者の比ではないほど進行していた。本来であれば、外を一人で歩かせることすら危ういレベルだったのだ。世間は、こうした存在を「老害」の一言で片付け、怒りを露わにする感情的な老人として遠ざける。だが、現行の道路交通法を機械的に当てはめ、個人の自己責任として処断するだけでは、根本的な解決からほど遠いと言わざるを得ない。しかし、田村という人間だけを責め立てて終わりにしていいのだろうか。彼は若い頃、真面目一筋に働く男だった。工場勤務で長年残業をこなし、家族を養い、住宅ローンを返し切った。妻が病床に伏せれば、愚痴ひとつこぼさず看病を続けた。だが、妻が亡くなった後、彼に寄り添う者は誰もいなかった。近所の人間は「お気の毒に」と一口声をかけたきり距離を置き、行政の窓口は機械的に書類を突きつけるだけ。社会全体が、彼の抱える深い落胆と孤立に対して徹底的に無関心だった。行き場を失い、押し殺し続けた感情は、やがて制御不能な歪みとなって溢れ出す。酒で脳を痺れさせ、思考を濁らせ、ハンドルを握った瞬間に――何かがぷつりと弾けた。凶行に及んだ加害者である彼もまた、無関心という社会が作り出した被害者の一人だったのかもしれない。綺麗事の裏側で、人間の業は静かに、だが確実に積み重なっていく。健一と美咲は退院後、新たな車を購入した。延期せざるを得なかった結婚式も、時間をかけて無事に挙げることができた。しかし、いまも高速道路を走るたび、ミラーを何度も何度も確認してしまう癖が抜けない。田村は現在、裁判で責任能力の有無を問われている。認知症の進行が事故にどう影響したのか、法的論点が争われているという。だが、どのような判決が出ようと、失われた平穏が完全に戻ることはない。夫婦の車は大破し、田村の人生もまた、とうの昔に壊れていたのだから。もしも、誰かがほんの少しでも彼に関心を持っていたら。制度の限界を教習所に丸投げせず、法的に食い止める仕組みがあったなら。孤独な老人をただの「害」として切り捨てず、差し出される手があったなら。抱え込んだ怒りや悲しみを、吐き出せる場所が存在していたなら――。この一・七キロにわたる惨劇は、起きずに済んだのかもしれない。人間の業は、綺麗事の裏側で、いつも同じ歪んだ形をしている。被害者と加害者の境界線は、誰もが思っている以上に脆く、薄い。無関心という名の静かな暴力が種を蒔き、今日もおぞましい芽を吹き出している。東名高速の朝日は、今日も変わらず昇る。誰かがハンドルを握り、誰かが恐怖を抱えながら、後方の車影を気にしている。その視線の先に、また同じ業が静かに待ち構えているとも知らずに。(50話 後編に続く)人間の業 ― 綺麗事の裏側 第50話(後編)副題:責任の所在と、保身という名の無関心事故から数日後。怪我の痛みに耐えながら、健一は警察署の一室にいた。すでに大破した愛車の現場検証や初期の聞き取りは終わっている。しかし、担当した捜査員は、事故の惨状や加害者の動機ではなく、妙な点について執拗に問い詰めてきた。「健一さん、改めて確認ですが……最初に通報された時、『追突された』と言いましたね? それとも『追突されそうになったから助けてくれ』と言いましたか?」健一は眉をひそめた。首に巻かれたコルセットが痛む。「……何度も何度も後ろからぶつけられていたんです。だから『追突されて殺されそうだ、早く来てくれ』と叫びました。それが何か関係あるんですか?」「いやね、当時の指令室のログと突き合わせているんです。あなたが『ぶつけられた』と言ったから出動指令を出したのか、それとも『危険な車がいる』という段階で動いたのか。ここをハッキリさせないと、こちらの対応の根拠が曖昧になるんですよ」警察官は手元のメモに目を落としながら、事もなげに言った。『こう言われたから、我々は出動したのだ』そう言いたいだけの、自己保身に満ちた言葉。まるで「通報の言葉選び」に落ち度があったかのような誘導に、健一の胸の中に黒い感情が渦巻いた。(そんなこと、どうでもいいだろ……!)目の前で一・七キロにわたって何度も車をぶつけられ、死の恐怖に晒されていたのだ。一刻を争う絶体絶命の極限状態において、通報者が選ぶ言葉の些細なニュアンスなど、どうして正確であり得ようか。「何が目的でそんなことを聞くんですか?」健一の声が怒りで震えた。「現場で今まさに人が殺されそうになっている時に、警察は『どういう名目で出動するか』の言い訳を考えていたんですか? だから到着があんなに遅かったんですか!?」捜査員は不快そうに視線を泳がせ、「いや、手続き上の確認ですよ」と気まずそうに咳払いをした。しつこすぎる問いかけ。保身のための問答。現場の緊迫感からかけ離れたその不毛な対応こそが、警察の「緊急性」を著しく欠如させていたのだ。もし最初の接触の段階で迅速に高速隊が動いていれば、夫婦の車が大破する前に、そして他の被害が出始める前に、男を制止できたかもしれない。しかし、警察という組織にとってもまた、優先されるべきは「目の前の命」ではなく「事故後の責任の有無」という綺麗事の書類だった。一方、逮捕された田村義男の裁判は、静かに進められていた。弁護側は、田村の認知症の進行と、それに伴う責任能力の有無を争点に挙げた。「被告は事故当時、心神耗弱の状態にあり、自身の行動の意味を正しく認識できていなかった可能性がある」法廷の被告人席に座る田村は、力のない目でぼんやりと空間を眺めていた。数年前まで、真面目に工場で働き、家族を養い、妻の看病を尽くした男の面影はどこにもない。「何度も何度も追突して……何が目的だったのか本当に理解できない」健一が病院で絞り出したあの問いに対する答えは、結局、裁判でも明かされることはなかった。目的など、最初から存在しなかったのだ。妻を失った孤独。社会からの孤立。形骸化した高齢者講習をすり抜け、誰も引き留めてくれなかった絶望。それらが混ざり合い、静かに混濁していった脳内で、彼はただ「前を行く車」に向かってアクセルを踏み続けた。理由も、殺意すらもなく。判決は、執行猶予付きの有罪、あるいは医療機関への措置入院という形で落としどころが探られていく。裁判官も、検察も、弁護人も、法律という形式的な枠組みに彼を当てはめ、処理していくことだけに心を砕いていた。通報者の言葉尻を捕らえて保身に走る警察と同じように。誰も、田村という人間がなぜそこまで壊れてしまったのかという「根底にある病理」には触れようとしない。数ヶ月後。健一と美咲は、買い換えた車で再び高速道路を走っていた。結婚式は無事に終わり、二人でやり直す日常が戻ってきたはずだった。だが、車内を支配するのは重苦しい沈黙だった。美咲は助手席で固くなり、ドアグリップを握りしめている。健一もまた、数秒おきにバックミラーへ意識を向けずにはいられない。ミラーに映る、後方の車影。ただ車間距離を詰めてきただけのトラックや、普通に乗用車を運転しているだけのドライバー。その誰もが、一瞬で「あの白い車の悪夢」へと変貌するのではないかという妄想が、頭を離れない。「ねえ、健一さん……」美咲が掠れた声で呟く。「あの人……田村という人は、今どうしているんだろうね」「さあな……病院か、どこかの施設じゃないか」健一は前を見据えたまま答えた。「私たち、運が良かっただけなのかな。……もし、もっと助けが遅れていたら。もし、あの警察の電話で言葉を一つ間違えていたら……」美咲の言葉は途切れ、静かなすすり泣きに変わった。事故の傷は癒えても、奪われた「安心」は二度と戻らない。被害者となった自分たちもまた、社会の無関心と、手続き優先の冷酷な制度によって、心の中に終わりのない毒を流し込まれ続けている。田村義男という男が起こした凶行。それを生み出した社会の無関心。いざ起きてしまえば、保身のための言い訳作りに終始する行政と警察。誰しもが「自分は正しく処理している」「自分には責任がない」という綺麗事の裏に隠れ、本当の恐怖や課題から目を背けている。東名高速を走り抜ける風の音が、不気味に響いていた。バックミラーの中で、後方の車のライトが鈍く光る。誰かがハンドルを握り、誰かが恐怖を抱えながら、後方を気にしている。その背後で、次の「業」が静かに芽を伸ばしている。(第50話 完)>※完全オリジナル作品です。二次創作ではありません。#人間の業 #歴史の循環 #心理小説 #綺麗事の裏側この話が気に入ったら、ランキングバナーをいただけると励みになります。
