人間の業 ― 綺麗事の裏側(別版):愛犬家という名の身勝手 ― 動物はアクセサリーではない
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2026-10-19 08:12:53
人間の業 ― 綺麗事の裏側 (別版)副題:可愛いときだけ愛するのなら、それは本当の愛情なのか釣りYouTuberのマルコスさんが飼っている愛犬は、ゴールデン・レトリバーではなく、ゴールデンドゥードルのベンティとソフィだったはずだ。ところが、インスタグラムにはゴールデン・レトリバーが紹介されていた。犬好きの人間にとって、犬の姿を眺めるのは楽しい。美しい毛並み、愛くるしい表情、飼い主に寄り添う姿。写真や動画に収めれば、それだけで人目を引く。だが、ふと思う。人間は、犬の可愛らしさばかりを見てはいないだろうか。犬を飼うということは、可愛い姿を眺め、散歩を楽しみ、写真を撮ってSNSに載せることだけではない。相手もまた、年を取り、病気になり、身体の自由を失い、やがて自分の力では生きられなくなる存在なのだ。昨日、いつも散歩の途中で見かける犬の飼い主と話をする機会があった。紀州犬だと思っていたが、実際には四国犬だった。忠実でありながら気性が荒い犬らしく、普段は滅多に近寄らせてもらえない。ところが、その日は飼い主と言葉を交わすことができた。犬の具合が悪かったからだ。十二歳になるという彼は、介護用のハーネスを着けていた。後ろ足に力が入らず、飼い主が身体を吊り上げるように支えながら、どうにか歩かせているのだという。両目とも白内障がかなり進み、瞳は白く濁っていた。その姿を見て、私は犬の白内障について知っていることを伝えた。手術という選択肢もあること、治療費や日帰りでの対応については動物病院に相談できること。すると、飼い主はこう答えた。「お宅のワンちゃんは室内飼いでしょうけど、我が家は外飼いだから……」その言葉を聞いて、私は考え込んでしまった。室内飼いか、外飼いか。それは飼い主の生活環境や考え方によって違うだろう。犬種によって適した飼育環境も異なる。しかし、十二歳になり、後ろ足が弱り、目も見えにくくなった犬にとって、今の環境が本当に適切なのか。それを考えることこそ、飼い主に求められるのではないだろうか。今夏は、ことのほか厳しい暑さが続いた。人間でさえ耐え難い暑さの中、老いた犬はどれほど苦しかっただろう。自分で涼しい場所を探すことも、思うように身体を動かすこともできなくなっていたとしたら。もちろん、飼い主にも事情はある。費用の問題もあれば、住宅事情もあるだろう。外飼いだからといって、それだけで愛情がないと決めつけるつもりはない。それでも、犬が苦しんでいるとき、飼い主の都合を優先するのか、それとも犬にとって何が必要なのかを考えるのか。その違いは大きい。これは、犬に限った話ではない。冒頭のマルコスさんの犬についても、SNSにどんな犬を紹介したかということだけで、飼い主の姿勢を判断することはできない。ゴールデン・レトリバーを紹介した理由も、私には分からない。ただ、華やかな写真や動画の向こう側に、忘れてはならない現実がある。動物は、人間の目を楽しませるためだけに生きているのではない。可愛いから飼う。珍しいから飼う。自分の生活を彩ってくれるから飼う。それ自体が悪いわけではない。問題は、動物が年を取り、病気になり、世話に手間がかかるようになったときだ。元気なときには愛情を注いでも、介護が必要になれば飼い主の負担になる。思うように動かなくなれば、以前のような楽しみも得られなくなる。そのとき、飼い主は何を思うのだろう。最後まで自分が面倒を見ると決めたはずなのに、いつの間にか、動物のためではなく、自分の都合を中心に物事を考えてはいないだろうか。人間は、自分では愛情深い人間だと思っている。動物を可愛がり、餌を与え、散歩に連れていく。それだけで、自分は立派な飼い主だと思い込む。だが、本当の愛情が問われるのは、相手が自分の期待に応えてくれなくなったときではないだろうか。老いて歩けなくなった犬。目が見えなくなった犬。以前のように走り回ることも、飼い主に飛びつくこともできなくなった犬。それでも、その命は変わらずそこにある。人間の都合で飼い始めた命なら、最後まで人間の責任で守る。それができないのなら、最初から飼わないという選択もあるはずだ。犬はアクセサリーではない。人間の暮らしを飾るための存在でも、SNSで注目を集めるための道具でもない。動物を飼うということは、その命を自分の生活に迎え入れ、老いも病も含めて引き受けることなのだ。動物の身になって考える。その当たり前のことができて初めて、人は愛犬家と呼ばれるのではないだろうか。この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。



