人間の業 ― 綺麗事の裏側 第77話:黙っている側が、最後に悪者になる
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2026-09-13 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第77話(前編)副題:へつらいが生む惨事1980年8月19日、サウジアラビア航空163便はリヤド空港に緊急着陸した。貨物室の火災を検知して引き返したロッキードL-1011は、滑走路に無事に降りた。しかし機体は誘導路まで走り、停止後もしばらくエンジンを回し続けた。地上から扉が開かれたのは、エンジン停止から23分後だった。そのとき機内の301人はすでに、有毒ガスと一酸化炭素で死亡していた。遺体は前方に折り重なるように見つかった。コックピットの乗員も座席に座ったままだった。調査は、火災そのものより「着陸後にすぐに停止せず、避難を命じなかった」ことを問題視した。客室乗務員は避難の準備をしていたが、機長の指示を待った。当時のコックピットは権威勾配が急だった。副操縦士や機関士が強く意見を言いにくい文化があり、事態の深刻さを機長が十分に把握していなかった可能性が指摘されている。訓練記録にも、意思決定の遅さや学習の遅さが記されていた。後年、この種の事故がCRM(クルー・リソース・マネジメント)訓練を世界に広めるきっかけの一つになった。階層を絶対視し、下からの指摘が届かない構造が、地面に降りたあとの23分を生んだ。2025年6月2日の報道は、北海道の過疎町を舞台にした別の選択を伝えた。長万部町と黒松内町にまたがる旧静狩金山。1962年に閉山した鉱山を、外資系企業が再調査しようとした。金価格の高騰と採掘技術の進歩が背景にある。国は2024年2月までに、農地・河川・海水への汚染配慮を条件に試掘を許可した。長万部町長は「人口減が続く。企業が来て経済が動けば人口増につながる。試掘は調べるだけ」と前向きだった。一方、黒松内町では水源汚染やブナ林への影響を懸念する声が強く、住民説明会は紛糾した。反対署名約2200筆が議会に提出され、町議会は環境破壊につながる鉱山開発に反対する決議を可決した。事業者は2025年秋に日本法人を解散し、計画は止まった。二つの出来事は、形は違う。一つは緊急時の指揮系統、一つは資源開発の許認可と地元の利害。共通するのは「専門職・権限を持つ側への遠慮が、判断を遅らせ、リスクを見えにくくする」点だ。航空機事故では機長への忖度が、避難の遅れを生んだ。金山では、国の許可と経済活性化を優先する判断が、地元の水と環境より先に進んだ。過疎地の首長が雇用と税収を求めるのは理解できる。だが許可を出す側が、汚染リスクと長期の代償をどれだけ自分ごととして測ったかは、説明が足りない。社会は医師、弁護士、パイロット、官僚に対してへつらいすぎる。パイロットは高度な訓練を経た職業だが、一度資格を取れば日常運航の多くは、規律と手順の反復である。バスの運転手が酒気を帯びて乗務すれば即座に問題になるのに、航空の世界では「残量があるのに乗務した」事例が繰り返し出て、反省の色が薄いとの指摘が続く。専門性を盾に、失敗の説明責任が曖昧になる。官僚も同じで、人事権と許認可を握る側が、現場の利害と距離を置いたまま判断を下す。提案は極端に聞こえるかもしれない。飛行機なら、人事権を実質的に握る側(経営・監督当局の人間)が必要に応じて同乗し、緊急時の指揮を監視する。官僚なら、複数の外部の目が常時張り付き、指示を出す。現実には乗客を監視役にするのは訓練不足で危険だし、官僚に外部監視を常駐させるのもコストと権限の衝突を生む。だが「専門家だから任せる」という姿勢を、無条件に続けてよいかは別問題だ。権威勾配を緩める訓練は航空では進んだ。鉱山開発では、黒松内町のように住民と議会が動かなければ、計画は進んでいた。未然に防げたはずの二つの出来事に対し、国民が懲戒処分を求め、デモで意識を変えるべきだ、という声は強い。1980年の事故はすでに歴史になり、関係者の多くは故人だ。2025年の金山計画は、一つの町の反対で止まった。それでも「黙っている国民こそ、全体像から見れば悪者になる」という指摘は、的を外していない。専門職を甘やかせば、飲酒乗務も、遅れた避難も、環境を後回しにした開発も繰り返される。権限を持つ人間を監視するのは、彼らを敵視することではない。失敗したときに「仕方なかった」で終わらせないための、最低限の緊張感である。沈黙は中立ではない。沈黙は、既存の権威勾配をそのまま温存する選択になる。人間の業 ― 綺麗事の裏側 第77話(後編)副題:専門職を甘やかした代償心電図の電子音が、規則正しく「ピ……ピ……」と無機質な音を刻んでいた。術野を照らす無影灯の鋭い光の下、第一外科教授・桐島の指先は躊躇なく動いていた。予定時間を一時間以上超過した腹腔鏡下の手術。モニターに映し出された腹腔内は、鬱血した組織と焼灼の煙で薄く霞んでいた。第二助手に入っていた研修医の涼太は、画面の右隅、十二指腸の裏側に滲む小さな赤黒い影から目を離せずにいた。(血が……増えている?)最初は気のせいだと思おうとした。だが、吸引管が吸い上げる赤の濃度があきらかに濃くなっている。結紮(けっさつ)したはずの血管から、目立たない場所でゆっくりと、しかし確実に血液が溢れ出していた。「桐島先生」声を出そうとした。しかし、喉の奥がカラカラに乾き、舌が上顎に貼り付いたように動かない。桐島は「神の手」と呼ばれる絶対的な権威だった。この医局での人事権を独占し、意に沿わない若い医師を僻地の病院へ追いやった噂は一度や二度ではない。何より、半時間前、麻酔科医が血圧の微小な変動を指摘した際、桐島が放った一言が頭から離れなかった。『手元も見ないで数字だけ弄ってんじゃない。邪魔だ』あの冷徹な一言で、手術室の空気は凍りついたのだ。以来、誰も余計な口を開かなくなった。熟練の第一助手すら、ロボットのように黙々と器械を受け渡すだけに徹している。心電図のピッチが、ほんの少し早くなった。「先生、血圧が八十を切りました。脈拍も百一に上がっています」麻酔科医の声には、すでに先ほどのような強い張りはなかった。ただ事実を告げるだけの、投げやりで遠慮がちな響き。桐島は視線すら上げず、鼻で笑った。「急激な大量出血もないのに何言ってるんだ。麻酔を少し調整しろ。素人はすぐ数字に踊らされる」(ちがう)涼太の胃の底が、氷を詰め込まれたように冷たくなった。大量出血は起きている。表に出ていないだけだ。画面の陰、あの臓器の裏側で、静かに、だが血が溜まり続けている。今、自分が「桐島先生、十二指腸の後ろです」と言えばいい。たったそれだけのことだ。だが、もし自分の見間違いだったら?教授の判断を大勢の前で否定し、メンツを潰したら、自分の医師としての将来はどうなる?(誰かが言うはずだ。第一助手の先生だって見ているはずだ)涼太は隣の先輩医師の横顔を見た。先輩は固く口を結び、一心不乱に画面の別の場所を見つめている。分かっているのだ。気づいていながら、「気づかないフリ」という最も安全なシェルターに逃げ込んでいる。沈黙という毒が、静かに手術室を満たしていく。心電図の音が「ピピピピ……」と甲高さを増した。その警告音すら、権威という巨大な壁の前では虚しくかき消されていく。(言え、言えよ、自分)喉元まで出かかった言葉は、評価への恐怖と、場の空気を壊すことへの躊躇いに押し潰され、どろりとした固形物となって胃に落ちていった。涼太はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。何事も起きていないかのように、ただ静かに、吸引管のグリップを強く握りしめ直した。話しは変わります。2019年4月、沖縄の那覇空港で叔父の葬儀に向かう途中に財布をなくし、途方に暮れていた高校生。そこに通りかかり、見ず知らずの少年に「これでチケットを買いなさい」と迷わず6万円を手渡した男性は、のちに高名な脳神経外科医である埼玉医科大学の教授(当時)だと分かります。後日、無事に再会を果たして感謝を伝えたニュースは、多くの人の心を打ちました。ですが、この物語の真に味わい深いオチは、その「完璧に見える権威」の人間味あふれる勘違いにあります。教授は少年を助けたあと、身元を確認しようと「沖縄高専(高等専門学校)」に電話をかけ、「そんな生徒はいない」と言われて首をひねっていました。のちに再会した元学生は、屈託のない笑顔でこう言い放ったのです。「僕が通っていたのは沖縄工業高校です。高専ではありませんよ」世界最高峰の術式を操り、人の脳という最も複雑な領域に執刀する天才外科医であっても、沖縄の高校と高専の違いは知らなかった。ただそれだけのことですが、ここには深く優しい教訓が眠っています。私たちは往々にして、肩書や専門性に圧倒されてしまいます。医師、教授、官僚、パイロット——彼らが特定の分野で常人離れした知識や技術を持っているのは確かです。しかし、一歩その専門の領域を外れれば、彼らもまた、私たちと同じように道に迷い、勘違いをし、知らないことに溢れた「一人の人間」に過ぎません。如何に高名な脳外科医であっても、持ち合わせていない知識や技術はいくらでもあるのです。だからこそ、権威に過剰に恐れおののく必要など、どこにもありません。彼らの意見や判断に違和感を覚えたとき、あるいは現場で「何かがおかしい」と感じたとき、専門家という巨大な看板に気圧されて言葉を呑み込むのはやめましょう。彼らが見ている世界は、決して万能の神の視点ではありません。あなたが立っている現場の空気、あなたが肌で感じた違和感、あなたが知っている身近な真実——それは、どんなに偉大な専門家であっても「持ち合わせていない知識」かもしれないのですから。正しさを恐れずに口にすること。肩書ではなく、目の前の事実と対等に向き合うこと。あの沖縄の空の下で起きた心温まる行き違いは、私たちにそんな勇気を静かに語りかけています。手術室の話を読んだあなたへ。あなたは涼太ですか。それとも、口を閉ざした第一助手ですか。それとも、数字を指摘したあと、張りを失った麻酔科医ですか。画面の陰で血が溜まっていると気づいたとき、あなたは声を出しますか。「見間違いだったら将来が終わる」と考えて、吸引管を握り直しますか。桐島教授は神の手ではありません。人事権を握っているだけです。その人事権に怯えて黙るなら、心電図の音が速くなっても、あなたは安全な側に立ったつもりでいられます。だが患者は、その沈黙の代金を払います。質問 1:あなたが今いる職場で、「おかしい」と感じた瞬間、最後に声を出したのはいつですか。出さなかった理由を、今も正当化できますか。沖縄の空港の話を読んだあなたへ。六万円を迷わず渡した教授は、確かに立派です。だがその人が「沖縄高専」に電話して首をひねった事実を、あなたはどう受け取りますか。脳という最も複雑な領域を切る人間でも、隣の県の高校の名前を知りません。それでいい。問題は、あなたがそれを知ったあと、まだ「教授だから正しい」「官僚だから正しい」「パイロットだから正しい」と、領域の外側まで信じてしまうかどうかです。質問 2:あなたは専門家の肩書を見た瞬間、自分の違和感を捨てたことがありますか。捨てたあと、結果が悪くなっても「あの人の判断だから」で済ませましたか。あの少年は、屈託なく言いました。「高専ではありませんよ」。あなたは、目の前の権威に対して、同じ短さで事実を言えますか。両方を読んだあなたへ。第一話の沈黙と、第二話の勘違い。片方は人が死にかねない現場、片方は心温まる行き違いです。だが構造は同じです。専門家は万能ではない。知らないことがある。間違える。そのとき、周りがへつらえば、扉は開かず、血は裏に溜まり、許認可は進みます。この文をご覧になってるあなたへ、最後にお伺いします。あなたは、人事権を握る人の前で事実を言う側ですか。それとも、気づかないフリというシェルターに逃げる側ですか。黙っているうちは、被害者の顔をしていられます。だが全体から見れば、その沈黙が、例えばサウジアラビア航空163便の23分をもたらします。あなたは、どちらでいたいですか?>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。



