人間の業 ― 綺麗事の裏側 第42話:タケノコの重み
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2026-08-05 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第41話(前編)副題:タケノコの重みベトナムの山間の農村では、雨季が終わるころになると密林の奥でタケノコが顔を出す。だが、それは町の市場に並ぶような、柔らかく白いものではなかった。時季が少しでもずれると、すでに一メートルを超えて伸びきり、皮は硬く、穂先だけがかろうじて食用に耐える代物になる。ある朝、日の出前に一人の女が家を出た。背中に古い背負い籠、手には小さな包丁。川を遡り、ぬかるんだ獣道を辿り、密林に分け入る。半日かけて、やっと五キロ。それも大半が根元の太い部分で、穂先はわずかだった。家に戻り、たき火で茹で、泥を落としてタライに並べる。小雨が降り始めた午後、彼女は背負い籠を背負い直して街へ向かった。市場の通路脇にしゃがみ込み、彼女は声を張り上げる。「シャキシャキとして美味しいよ。今日採ったばかりだよ」人通りはあったが、誰も足を止めない。時季外れのタケノコなど、誰も本気で買おうとは思わないのだ。彼女は何度も同じ言葉を繰り返し、濡れた地面に膝をついたまま待ち続けた。やがて、一人の女が前に立ち止まった。街暮らしらしい、きれいなサンダルを履いた女だ。女は何も言わずにしゃがみ込むと、タライの中のタケノコを手にとった。そして、柔らかい穂先だけを丁寧に残し、根元の硬い部分を次々に千切っていく。ぐちゃぐちゃという不快な音が雨音に混じる。すべてを処理し終えると、女は残り少ない穂先だけを袋に入れさせ、秤にかけた。「これだけね」大半が売れ残りとして、タライの底に転がっていた。彼女は何も言えなかった。腹の底から込み上げてくる怒りと虚しさが、喉の奥まで押し寄せていた。一緒に持ってきた小粒のナスまで背負い籠に押し込み、彼女は黙って立ち上がった。雨はますます強くなっていた。その日の夕食は、売れ残ったタケノコの根元だった。さらに細かく刻み、塩だけを振って口に運ぶ。咀嚼するたびに、半日かけて辿った密林の道、川の冷たさ、背負い籠の重みが歯に響いた。日本でも、かつてはそうだった。畑から採れたての野菜を、土のついたまま籠に入れて売っていた時代。買う気もないのに傷んだ外側の葉をむしり、根を千切り、気にくわない部分を次々と捨てていく人たちがいた。売る側は、ただ黙って見ているしかなかった。やがて食品衛生の名目のもと、すべてがラップにくるまれるようになった。きれいに、安全に、他人の手の届かない場所へ。だが、ラップの向こうに隠されたものは変わらない。一メートルを超すタケノコの先端を、半日かけてわずか五キロだけ採る労苦。それを「所詮他人事」と切り捨てる街の人々の無神経さ。田舎を嫌う理由の一端は、きっとそこにある。誰かの一日が、誰かの夕食の残り物になることを、知らないふりをして生きていける場所――それが都会だからだ。彼女は今夜も、売れ残ったタケノコを噛みしめながら、明日何を売ればいいのか思案する。綺麗事の裏側で、人間の業は、静かに、しかし確かに繰り返されていく。(第42話 後編に続く)人間の業 ― 綺麗事の裏側 第42話(後編)副題:満足と嘲笑夕闇が迫る泥道を踏みしめながら、彼女は家路を急いだ。背負い籠の中には、無残に千切られたタケノコの根元と、売り物にならなかった小粒のナスが重く沈んでいる。雨は容赦なく彼女の肩を打ち、冷え切った衣類が肌に張り付く。だが、体の冷たさ以上に、胸の奥にぽっかりと開いた暗い穴が冷えていた。家に帰り着き、小さなランプに火を灯す。売れ残ったタケノコの根元を包丁で細かく刻み、鍋で煮直して塩だけを振った。それが今夜の食卓のすべてだった。一口噛みしめるたび、耳の奥で、あの女が冷たい手つきでタケノコを押し潰し、千切っていった、あのぐちゃぐちゃという不快な音が雨音に混じって蘇る。丹精込めて茹で上げたタケノコを踏みにじるようなあの音は、彼女の尊厳を押し潰す音でもあった。だが、彼女が何よりも無念だったのは、自分の労力が無駄になったことではない。――お金が、どうしても必要だったのだ。自分の腹を満たすためだけなら、こんな苦労はしない。彼女の家の裏手には、骨が浮き出るほどやせ細った犬や猫たちが、彼女だけを信頼して腹を空かせて待っている。そして何より、物陰で怯えるように身をひそめている十八歳の女の子の存在があった。かつて彼女の家に住み込みで健気に働いてくれていたその子は、義理の兄から激しいいじめを受け、着の身着のままで逃げてきたのだ。行き場を失い、庇護者を求めて頼ってきた少女に、せめて当面の生活費として、少しでもまとまった現金を渡してやりたかった。あのタケノコは、ただの食材ではない。追いつめられた者たちの「命綱」だったのだ。ベトナムの密林は、生半可な場所ではない。足元からは血を吸うヒルが這い上がり、草むらには毒蛇やダニが潜む。そして一番恐ろしいのは、一歩足を踏み外せば二度と戻れなくなる緑の迷宮だという点だ。道に迷えば、そのまま命を落とす。そんな生死を賭けた場所に、本来なら守られるべき女性や子どもたちが、生きるために分け入っていくのだ。それほどの危険を冒し、命がけで持ち帰った食材を、街の人間は「ぐちゃぐちゃ」と音を立てて壊し、平然と投げ捨てていく。「明日、何を売ればいいんだろう……」噛みしめるタケノコは苦く、喉を通らない。現金収入の道は閉ざされた。明日またあの恐怖の密林へ入らなければ、あの子に渡すお金も、生き物たちのエサ代も作れない。街の人々は、綺麗なラップに包まれた野菜を眺めながら、その裏にある血と汗と恐怖を知ろうともしない。都会とは、誰かの命がけの一日が、誰かの身勝手なエゴで切り捨てられていることすら「知らないふり」をして生きていける場所なのだ。彼女は最後の一口を飲み込み、静かに箸を置いた。暗がりの中で、逃げてきた少女が不安そうにこちらを見つめている。彼女は無理に微笑みかけると、硬くなった自分の膝を強く擦った。明日もまた、日が昇る前に起きて川を遡らなければならない。ダニや毒蛇の恐怖に震え、泥に足を奪われながら、命を繋ぐための「何か」を探して密林を彷徨うのだ。綺麗な言葉で覆われた世界の裏側で、人間の業と理不尽な哀しみは、明日も静かに、しかし確かに繰り返されていく。(第42話 完)>※完全オリジナル作品です。二次創作ではありません。#人間の業 #歴史の循環 #心理小説 #綺麗事の裏側この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。
