人間の業 ― 綺麗事の裏側 【特別考察コラム】:忘却の淵にあってなお、亡き母にすがる――「生きる」ということ
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2026-10-12 07:43:13
人間の業 ― 綺麗事の裏側 【特別考察コラム】副題:『まどろみの底で』昼下がりの薄暗い室内で、久美は浅い眠りに落ちていた。畳の上に身を横たえる彼女の唇が、かすかに震えている。正常と認知の端境期(はざかいき)に佇む彼女は、現実と過去、記憶の覚醒と混濁の間をゆっくりと揺蕩(たゆた)っていた。聞き取れないほど小さな声だったが、耳を澄ませると、それは3年前に世を去った母の名を呼ぶものだった。「……おか……あ……っ……」それは老いゆく脳が見せる幻影なのか、あるいは意識のタガが緩んだからこそ漏れ出た本音なのか。単なる妄言や認知の症状として片付けるには、その声の端々に宿る感情はあまりにも切実で、魂の深部に沈殿した記憶の傷口から滲み出る血の音そのものだった。久美の母・好子は、かつて女衒(ぜげん)の手先として生きた。戦後の焼け野原、極貧と飢餓が町を覆い尽くしていた時代。男手のない家を食わせるため、母は女を売り、また買いたたく側に回った。それがどれほど罪深く、忌むべき生業であるかを自覚しながらも、そうしなければ明日の粥にすらありつけなかったのだ。お金になるまで、戻っては来られない——そう自分自身に強く言い聞かせ、母は自宅を後にし、男を求め街へと彷徨い出た。幼い久美と弟を残したまま、母は夜の闇へと消えていった。食うものも、痩せた身を温める暖もなく、灯りすら点かない暗がりで、久美は腹の虫の音を聴きながら幾日も母の帰りを待ち続けた。かつて大山康晴名人の弟子だったという父は、自らその道を捨てたものの、過ぎ去った栄光が忘れられないのか、家に寄り付かず街で賭け将棋に耽っていた。たまに帰ってきたと思えば酒と金を無心して暴れる父への怯え、そして自分たちを置き去りにした母への憤りと深い愛着。相反する思いが混ざり合う極限の孤独を、彼女は幼い弟を守りながら耐え抜いたのだった。いま、正常と境界のまどろみの底で、久美が追っているのは、罪を背負って消えた母の背中なのか、それとも置き去りにされたあの頃の自分自身なのか。認知症の症状として片付けられてしまう言葉の裏側には、その人が生きてきた壮絶な歳月と、未だ癒えぬ記憶が眠っている。そして世界を見渡せば、時代の貧困や戦争、構造の歪みによって尊厳を砕かれ、生きるために自他を切り売りせざるを得ない人々が、今この瞬間も存在している。綺麗事の通用しない現実の果てで、人は何を糧にして生き、何を抱えて眠りにつくのか。久美の小さないびきと、途切れ途切れの寝言を聞きながら、私はただ静かにペンをとった。この世の暗がりに押し込められた声なき人々の痛みを、せめて物語という形で書き残すために。この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。



