人間の業 ― 綺麗事の裏側 第52話:耐えられる痛みと、耐えられない痛みの対比
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2026-08-17 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第52話(前編)副題:縛られ、耐え忍び、ただ待つことしかできなかった「女優(女)の業彼女は、名もなき大女優だった。美しさだけが取り柄の、どこにでもいる田舎の娘。しかし兄は、その美しさを金に換える術を知っていた。芸能事務所の社長、兄、そして彼女。三つの署名が並ぶ契約書に印を押したのは、彼女がまだ十代の終わりを迎える頃のことだ。判を捺す彼女の手は、静かに震えていた。売れると分かった瞬間から、兄は彼女の身体を「商品」として管理し始めた。妊娠して商品価値が落ちるのを恐れた兄と事務所は、彼女を子を産めない身体にした。それが当然であるかのように扱われた夜、彼女は独り、激痛に耐えた。酒の席に侍らされ、夜の勤めを強要される日々。彼女と同じ境遇に落とされ、子を産めぬ身体にされた女性たちが、静かに消えていくのを幾度も見てきた。彼女もまた、いつでも消される側にいた。それでも彼女は売れ続け、金を稼いだ。だが、その大半は兄に吸い上げられた。兄は妹の血肉で家を建て、車を買い、女を囲った。彼女の口座に残されるのは、毎月わずかな額だけだった。「契約書を取り戻したい」——それが彼女の生涯唯一の願いだった。しかし兄の前に立つと、言葉はいつも喉の奥で凍りついた。血の奥底まで沁み込んだ「家族を裏切るな」「親を敬え」という儒教的な呪縛。彼女は悪しき兄を拒むことができず、庇い、擁護し続けてしまった。彼女は密かに、駅から遠い木造の古いアパートを一室借りていた。その部屋の壁一面には、売れなかった子、姿をくらませた子、名前すら残らずに消えた子どもたちのポスターが貼り尽くされていた。毎晩、彼女はその部屋の床に座り込み、ポスターの中の瞳を見つめた。自らの失った人生と、産み落とせなかった存在を代わりに抱きしめるかのように。現場には、ひとりの元照明係の男がいた。寡黙なその男は、かつて彼女の目を見て、ただ「大丈夫か」と呟いてくれた。彼女はその男を想い、待ち焦がれた。いつか契約書を取り返し、この身体で——たとえ子が産めなくとも、彼の元へ行ける日を信じた。だが、彼女は最後まで立ち上がらなかった。家族という悪辣な縛りを前に、戦うことではなく耐え忍ぶことを選んでしまったのだ。純潔を汚される悲惨さには、ある瞬間、歪んだ快楽が混じるゆえに耐えられてしまうのかもしれない。しかし、一心に信じて待たされる男の孤独は、そうはいかない。久美の親友たちの多くもまた、北の国を故郷に持っていた。自らの悲惨さを売りに男へ擦り寄るが、慰み者の立場から脱しようとは決してしない。彼女の生き方もまた、それによく似ていた。悲劇を受け入れ、悪を擁護し、運命の風に身を任せてしまう大陸的な諦念。育ちの悪さという宿命から脱却する手段は、果たして存在するのだろうか。彼女が静かな朝に息を引き取る少し前——。彼女の死期を悟った元照明係の男は、積年の躊躇(ちゅうちょ)を捨て、今一度、己の想いを彼女に伝えた。彼女の枕元には、恨み言がびっしりと書き連ねられたノートが遺されていた。ノートの最後の一行には、こう残されている。『私は、美しかったから売られた。美しくなかったら、もっと早く死んでいたかもしれない。それでも、美しかったことを恨まない。ただ、兄を恨みきれなかった自分を、恨む。』名もなき大女優の物語は、ここでひとつの幕を下ろす。しかし、彼女を待ち続けた男の苦闘は、まだ終わっていなかった。綺麗事の裏側に、ただ人間の業だけが残り続ける。(52話 後編へ続く)人間の業 ― 綺麗事の裏側 第52話(後編)副題:守れなかった悔恨を抱え、待ち焦がれながらも愚直に生きた「照明係(男)の業男は、彼女に出会うその日まで光と影の境界線で己を磨き過ごしてきた。そんな日々の中、彼女にであった。撮影現場の片隅で重い照明機材を担ぎ、レンズの先に立つ彼女へ、最も美しい光を当て続けることが男の、命を賭けた生業(なりわい)となった。ファインダー越しに見る彼女は、神々しいほどに美しかった。しかし、ライトを消した瞬間にその瞳を覆う深い暗闇を、男は見逃さなかった。楽屋の影で、冷たい汗を拭いながら身を震わせる姿。血のつながらぬ悪辣な兄と事務所の人間が、彼女の報酬と人生を貪り喰らう現場を、男は何度も目撃してきた。「大丈夫か」ある日の撮影後、機材を片付ける男の口から洩れたのは、たったそれだけの言葉だった。彼女は驚いたように目を見開き、そして消え入りそうな笑みを浮かべて小さく頷いた。男にとって、それが最初で最後の、心を通わせた瞬間だった。だが、それは男だけの思い上がりではなかった。彼女がのちに語ったところによれば、歪んだ支配と搾取に塗れたその凄惨な生涯において、「男のヒトに心通わせることができた」と感じたのは、後にも先にも、この時の彼の一言だけだったという。たった一度きりの、ほんの数秒のぬくもり。彼女はその記憶だけを暗闇の中の灯火(ともしび)として、絶望の人生を生き抜いていたのだ。しかし、二人のささやかな交わりは長続きしなかった。彼女を取り巻く悪辣な環境は、影で寄り添おうとした男の存在すら許さず、男はまもなく現場を追われることとなる。職を失った男の生活は、急速に困窮していった。食っていくためには泥に塗れるような仕事でも選ばず引き受けるしかなかった。日々の糧にも事欠き、満足な食事にすらありつけない過酷な日々のなかで、男の体を蝕んでいったのは激しい肉体労働だけではない。彼女を想うあまり、自分から会いに行ってはならないと幾度も心を諫め、固く禁じ続けたこと。その誓いがもたらす烈しい孤独と愛執を紛らわすため、男は安酒と粗悪な煙草に頼るしかなかった。純潔を汚され、搾取され続ける悲惨さのなかに身を置く彼女は、耐えることでしか自分を保てなかったのかもしれない。しかし、信じて待たされる男の側には、感情を痺れさせるような気休めなど存在しない。ただひたすらに身を削り、酒と煙草で気を紛らわせながら、縮みゆく寿命を削って待ち続ける苛酷な苦闘の日々だった。「なぜ、あの男(兄)を切り捨てない」泥のような酔いの中で、男は何度も拳を握りしめた。彼女を奪い去りたいという焦燥と、会いに行くことを自らに禁じる戒め。その相反する感情に苛まれながら、男の命は短く削り取られていった。やがて過酷な不摂生と苦闘の末、男は己の死期が近いことを悟る。男は決断した。かつて現場で見せた愚直さそのままに、命の最後の欠片を振り絞って一歩を踏み出すことを。会うことを禁じていた最後の箍(たが)を外し、生涯一度の想いを伝えるために、病床にあった彼女の元へと向かったのだ。白く冷たい部屋。男は静かにその枕元に立ち、まっすぐに見つめ、最初で最後の叫びのように、胸の奥に秘め続けた想いを言葉にして投げかけた。「俺は、ずっとお前を待っていた。この場所で、お前が自分の足で立つのを待っていた」彼女の薄い唇がかすかに震え、涙が一条、頬を伝って落ちた。男の命がけた想いは届いたのだ。しかし、それはあまりにも遅すぎた光だった。想いを伝えた男は、ほどなくして息を引き取った。彼女に先立ってこの世を去り、短く過酷な生を終えた。男の死を知った彼女は、残された最後の力を振り絞るように、枕元にノートを置き、びっしりと恨み言を書き連ねた。兄への怒り、失われた子どもたちの名前、そして自分を信じて逝った男への切ない思いを。彼女が静かな朝に息を引き取ったのは、男の死からしばらく後のことだった。彼女が遺したノートは誰にも読まれず処分され、悪しき兄は最後まで妹の死を利用しようとした。育ちの悪さ、血の呪縛、そしてそれに抗えなかった女の業。そして、その影で自らの命を削り、先立っていった男の苦闘。彼女に当て続けたあの強い光は、本当は誰を照らしていたのだろうか。美しさに狂わされた女と、その美しさの影で命を削り終えた男。綺麗事の裏側に残されたのは、救いようのない人間の業と、永遠に消えない一筋の熱量だけだった。(第52話 完)>※完全オリジナル作品です。二次創作ではありません。#人間の業 #歴史の循環 #心理小説 #綺麗事の裏側この話が気に入ったら、ランキングバナーをいただけると励みになります。
