人間の業 ― 綺麗事の裏側 第106話:【連載】知っておきたい認知症のコト 第6回

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    人間の業 ― 綺麗事の裏側 第106話副題:介護者自身の心のケアと、地域や専門機関との連携法夕暮れ時、キッチンに立つ直子の手元で、トントンと刻まれる包丁の音が小さく響いていた。まな板の上の人参は、いつの間にか不揃いな形に歪んでいる。「直子、お父さんのメガネはどこかね?」リビングから、いつもの声がかかる。この1時間で、実に4回目の質問だった。「お父さん、さっき胸のポケットに入れたでしょう?」努めて穏やかに答えたつもりだったが、声の端に棘が混じるのを隠せなかった。居間から「ああ、そうだったか」と呑気な声が返ってくる。その声を聞いた瞬間、直子の胸の奥で、冷たい何かが限界を超えて溢れ出そうになった。――どうして、私ばかりがこんなに息苦しいんだろう。父の認知症が進行し始めてから1年。徘徊や激しい不穏症状があるわけではない。ただ、日々の些細な物忘れ、同じ会話の繰り返し、そして「しっかり者の父」が少しずつ崩れていく現実を受け止める作業が、じわじわと直子の心を削っていた。夜、父親が眠りについたのを確認し、直子はリビングの明かりを消して一人ソファーに沈み込んだ。静まり返った家の中で、理由のない涙が頬を伝う。怒り、自己嫌悪、不安、そして孤独感。家族だからこそ、手を抜くことができない。逃げ出したいと思う自分を、許すことができなかった。◇「直子さん、ちょっと顔色が悪いようだけど……大丈夫?」翌週、ケアマネジャーの民子さんが訪問してきた際、お茶を出しながらふと掛けられた言葉だった。「ええ、少し睡眠不足なだけで……父は落ち着いていますから、問題ありません」そう言って作り笑いを浮かべた直子に、民子さんは静かに首を振った。「直子さん。介護で一番大切なのは、お父さんのケアではなく、『介護をしているあなた自身のケア』なんですよ」民子さんは鞄から小さなパンフレットを取り出し、テーブルの上に置いた。そこには「地域包括支援センター」や「家族の会(介護者の集い)」の案内が書かれていた。「一人で全部抱え込もうとすると、いつか糸が切れてしまいます。介護は長距離走です。途中で息を整える給水所が必要なんですよ。デイサービスをもう1日増やして、その時間は自分のために使いませんか? それに、同じ悩みを抱える人と話すだけでも、心が少し軽くなりますから」「でも、私が楽をするために父を預けるなんて……」「違いますよ」と、民子さんは直子の手を優しく握った。「あなたが笑顔でいることが、お父さんにとっても一番の安心なんです。地域には、あなたを支えるための専門機関や仲間がたくさんいます。助けを求めることは、決して甘えでも手抜きでもありません」◇数日後、直子は思い切ってデイサービスの利用日数を週に1日増やし、午後の数時間を近くのカフェで過ごすことにした。久しぶりに一人で味わう暖かい紅茶の香りに、肩の力がすっと抜けていくのを感じた。また、地域包括支援センターが主催する「介護者のつどい」にも顔を出してみた。そこには、自分と同じように悩み、葛藤しながらも前を向こうとしている人たちがいた。「うちも最初はそうでしたよ」「一人で泣いたっていいんですよ」――そう声を掛け合える場所があるだけで、暗闇の中で一人ぼっちだった感覚が消えていった。夕方、デイサービスから帰ってきた父を迎える。「直子、今日はいい天気だったな」「そうね、お父さん。夕飯は何にしようか」前と同じ問いかけであっても、今の直子の心には、受け止めるための「余白」が生まれていた。専門機関の手を借りること。地域とつながること。そして、自分自身の心を労わること。それは決して介護の放棄ではなく、これからも家族として穏やかな時間を重ねていくための、大切な一歩なのだ。>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。
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