人間の業 ― 綺麗事の裏側(別版):一斉清掃 ― 古い町と新しい住民

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    人間の業 ― 綺麗事の裏側 (別版)副題:「昔からこうしてきた」その一言で、泥の山は今年も積み上がる春と秋になると、この町では一斉清掃が行われる。水路の泥をさらい、土手の草を刈り、道路脇に伸びた雑草を抜く。市の環境課からは、毎年同じような文書が自治会に届いていた。――清掃で発生したごみや刈草、汚泥等は、収集業者が回収しやすいよう、公道脇の指定された場所にまとめて置いてください。別に難しい話ではない。ところが、この町では、何年経ってもそれが徹底されなかった。「昔から、ここに置いとる」自治会の古株は、そう言う。水路から掻き上げた汚泥は、水路脇の農地へ運ばれ、小さな山になっていく。刈った草も、その近くへ寄せられる。昔からそうしてきた。それが彼らにとっての「正しい清掃」だった。問題は、その農地の一部が、もう昔の農地ではないことだった。農地を手放した人間がいて、その土地を若い世代が買った。そこに家が建った。新しい家の窓から見えるのは、整えられた庭と新しい住宅。そのすぐ先には、春になると泥の山。秋になれば、枯れ草と汚泥の山。せっかく草を刈ったはずなのに、清掃が終わった翌日の景色は、清掃前より汚く見える。久美は、それがどうしても納得できなかった。「これでは何のための清掃なんですか」そう言うと、自治会の男は怪訝そうな顔をした。「水路はきれいになっただろう」「水路だけ見れば、そうでしょうね」「だったら、ええじゃないか」「よくないです」久美は即答した。「水路をきれいにした代わりに、その横に汚泥の山を作ってるんですよ」男は黙った。だが、納得した様子はない。彼にしてみれば、久美の言っていることは、どこか都会的な感覚を持ち込んだ、贅沢な話に聞こえていた。「昔はな、そんなこと気にする人はおらんかった」その言葉には、長年この土地を守ってきた者の自負があった。自分たちは、雨が降れば水路が詰まることも知っている。草が伸びれば虫が増えることも知っている。泥が溜まれば、誰かが掻き出さなければならないことも知っている。若い者が知らない苦労を、自分たちは知っている。だからこそ、「昔からこうしてきた」という言葉には、彼らなりの重みがあった。しかし、久美からすれば、その「昔から」という言葉こそが疎ましかった。久美がこの土地を買ったのは、単に安かったからではない。広い土地と、そこから眺める景色に惹かれたからだ。都会の住宅地のように、隣家の壁が迫ってくることもない。窓を開ければ空が広く、季節の移り変わりを感じられる。だからこそ、多少無理をしてでも、この土地を買った。――だったら、土地を売った側にも、それなりの責任があるんじゃないの。久美は、そう思っていた。農地として使われていた頃なら、泥が積まれていようが、刈草が山になっていようが、誰も文句は言わなかったのだろう。だが、その土地を手放し、住宅地として売ったのなら、そこに人が暮らすようになることくらい分かっていたはずだ。昔は、そこに家がなかった。昔は、農地だった。昔は、誰も景観など気にしなかった。昔は、働きに出る若者も、今ほど多くなかった。そして何より、昔は昔だった。今は違う。「私たちは、平日は仕事に出ているんです」久美は言った。「それなのに、日曜日や祝日に一斉清掃です。休みの日くらい、家のことをしたいんです」すると、別の老人が口を挟んだ。「じゃあ、誰が水路を掃除するんだ?」その一言で、話は止まった。若者にも言いたいことがある。老人にも言いたいことがある。どちらも間違っているとは言い切れない。老人たちは、自分たちが町を支えてきたと思っている。実際、そうなのだろう。長年この土地で暮らし、税金を納め、自治会にも顔を出し、誰もやりたがらない仕事を引き受けてきた。だから、若い者から、「景観が悪い」「休日を潰された」「やり方が古い」などと言われれば、腹が立つ。――何もしてこなかった人間に、何が分かる。そんな思いもある。一方、若者からすれば、――だからといって、昔のやり方を押しつけられても困る。ということになる。久美は、その両方が分かるからこそ、余計に腹が立った。市役所にも言った。「環境課からは、公道脇にまとめてくださいって通知が来ていますよね」「はい」「だったら、なぜ自治会に徹底させないんですか?」担当者は困ったように笑った。「自治会の皆さんにも、それぞれ事情がありますから」「事情って何ですか?」「地域の方々との関係もありますし……」久美には、その言葉の意味が分かっていた。高齢者は、この町の古くからの住民である。土地を持ち、家を持ち、地域のことをよく知っている。そして、納めている税金も少なくない。市役所の職員からすれば、そんな相手に、「市の指示どおりにやってください」と強く言うのは、簡単ではない。まして、「環境美化のため、清掃で出たごみや汚泥は、必ず公道脇にまとめてください」などと言えば、「今まで何十年もやってきた方法を否定するのか」と反発される。だから、市も曖昧になる。自治会も曖昧になる。そして、翌年も同じことが起きる。春になる。水路を掃除する。汚泥を掻き上げる。農地の脇に積む。秋になる。また同じことをする。雨が降る。積み上げた泥が崩れる。茶色い水が水路へ戻っていく。久美は、その光景を見るたびに思った。――これなら、掃除をしないほうがましじゃないか。だが、そんなことを口にすれば、「じゃあ、お前がやれ」と言われるに決まっている。そして久美自身も、それを言われると弱かった。自治会の老人たちは、確かに自分より多くのものを持っている。土地もある。貯蓄もある。地域での人間関係もある。何十年もこの土地で暮らしてきたという実績もある。それに比べれば、自分はこの土地に後から入ってきた人間に過ぎない。だから、言いたいことがあっても、最後の一歩で躊躇してしまう。「だったら、あなたが自治会長をやればいい」そう言われるのが怖いのだ。老人たちにも、言いたいことはある。若者にも、言いたいことがある。市役所にも、言いたいことがある。けれど、誰も本当のことを全部は言わない。老人は、「若い者に恥ずかしいところを見せられない」と思っている。だから一斉清掃の日には、誰よりも早く現場へ来る。普段は杖をついている老人まで、鎌を持つと急に元気になる。「ここは俺がやる!」「そっちは任せろ!」まるで若者たちに、――まだ俺たちは役に立つぞ。そう言っているかのようだった。若者は若者で、――そこまで張り切らなくてもいいのに。と思いながら、黙っている。そして市役所は、――地域でうまくやってください。と願っている。誰も悪人ではない。だからこそ、話が終わらない。一斉清掃が終わった夕方。久美は自宅の窓から外を眺めた。道路脇には、きれいに刈られた草。だが、その向こうには、茶色い汚泥の山がいくつも残っている。水路は確かにきれいになった。けれど、町の景色は汚くなった。久美はため息をついた。「何のための清掃なのよ……」その声を聞いた夫が、テレビを見ながら言った。「まあ、昔からのことなんだから、仕方ないんじゃないか」久美は振り返った。「その『仕方ない』が、ずっと町を変えないんじゃないの?」夫は答えなかった。窓の外では、老人たちが残した汚泥の山が、夕日に照らされていた。そして、その山のすぐ向こうには、若い夫婦が新しく建てたばかりの家があった。新しい家。古い町。その境界線に、今年もまた、泥の山が積まれていた。この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。
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