人間の業 ― 綺麗事の裏側 第80話:黙認という名の加害

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    人間の業 ― 綺麗事の裏側 第80話(前編)副題:見過ごした者も加害者知佳は、ニュース映像を何度も巻き戻した。外環道を逆走する銀色の乗用車。パトカーがバンパーを壊しながら追う。やがて渋谷の路上で、三人の警官に引きずり出される白い髪の女。車内から見つかった包丁。*刀法違反。その後、責任能力の問題で釈放され、緊急入院したという続報。画面の向こうで女は何かを叫んでいた。知佳には、その声が「黙れ」と聞こえた。近所のスーパーで、知佳は同じような女を見かけた。レジの列で隣の客のカートをわざと押し、睨みつけ、「あんたもグルだろ」と低く呟く。誰も止めない。店員は目を逸らす。知佳も、一瞬、足を止めただけで通り過ぎた。家に帰ってから、胸の奥が重くなった。黙って見過ごした自分も、すでに加害の側に立っているのではないか。〇〇伝説はそこから始まる。——第一章 逆走千葉の高速で職務質問を拒否した女は、包丁を握ったまま車を発進させた。パトカー三台に衝突し、外環道を十キロ逆走した。大型トレーラーと接触したのに、誰も死ななかったのは奇跡に近かった。女は後にこう証言した、と知佳の小説の中では書く。「他言すれば家族ごと消す。動画もばらす」。背後にいたのは、表向きは「文化交流サークル」と称する集団だった。中国人の男が何人も交じっていた。平等を掲げ、弱い国を傘下に入れようとする動きと、女の逆走は無関係ではない、と知佳は考えた。強い者がルールを書き換え、弱い者がそれに従うしかない世界。知佳の主人公・玲奈は、そのサークルの元メンバーだった。動画を撮られ、家族を人質に取られた。逆走女と同じ脅迫を受けた。玲奈は逃げたが、近所の人間は誰も助けなかった。「関わると面倒」と目を逸らした。玲奈は思う。見過ごした者も、加害者だ。第二章 スペード遠い国の大統領は、スペードのエースのように世界を股にかけ、やりたい放題だった。悪いと知りながら選んだ国民は、利益と保身に凝り固まっていた。罷免しようとしない。「選んだ以上、任期満了まで法律の定めるところにより守り抜く」と言わんばかり。玲奈の隣人は、その大統領を「強いから正しい」と繰り返し、玲奈の話を「陰謀論」と一蹴した。玲奈は静かに答える。「あなたが黙っている限り、あなたもその強さの一部です」。 第三章 見過ごした者玲奈は日記に書いた。「やったもの勝ちの世情は、突然訪れたわけではない。近所のレジでカートを押す女、動画をちらつかせる男、平等を謳いながら傘下に入れる国、任期を盾に好き放題する指導者。それらを『自分には関係ない』と通り過ぎた瞬間、私たちは加害者になる」。 知佳は原稿の最後に、こう添えた。「ご近所に、これに近い人種は必ずいる。黙って見過ごしたら、見過ごした方も加害者に当たる」。玲奈は違った。彼女はスペードのエース同様、自分を貶めたこの世界を破壊しようとしていた。玲奈は日記を閉じ、窓の外の外環道を見た。車の流れはいつもと同じだった。誰かがまた、逆走を始めるのを待っているかのように。人間の業 ― 綺麗事の裏側 第80話(後編)副題:断絶の街の、ただ一つの楔風に煽られた古びたチラシが、誰もいないアスファルトの上を乾いた音を立てて転がっていく。画面に映し出されるニュースは、今日も「勝者」たちの高笑いを伝えていた。一方通行の高速道路を逆行し、暴力と脅迫で他者を踏みにじる者。巨大な国家の力を背景に、甘言と脅しで周囲を飲み込んでいく大国。そして、自らの利益と保身のために横暴な指導者を担ぎ上げ、法の盾の裏に隠れる人々。世界はいつの間にか、「正しさ」ではなく「強さ」と「やったもの勝ち」の理論で覆い尽くされていた。群衆はただ、無気力にその渦を眺めている。自覚を捨て、思考を放棄し、時代の流木のように流されることを選んだ人々。街を行き交う人々の目は死んだ魚のように濁り、自分たちの首を絞める絞首台の縄を、自らの手で丁寧に編み続けていることにすら気づいていない。「……誰も、止めようとしない」窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、青年は小さく呟いた。ガラスの向こう側の自分と、目が合う。青年の胸の奥底で、重く湿った不快感が渦巻いていた。それは世界に対する失望であり、同時に、何も行動を起こせない自分自身に対する激しい憎悪だった。心臓が、胸の肋骨を裏側から叩くように不規則に打つ。世界は病んでいる。力を持つ者がルールを書き換え、持たざる者はその不条理を「仕方がない」という言葉で飲み込む。大統領が世界を翻弄し、人々がそれを受け入れるとき、この世界から「善意」という概念は静かに呼吸をやめたのだ。指先が冷たくなっていくのを感じながら、青年は握りこぶしを作った。爪が手のひらに食い込み、かすかな痛みが走る。誰もが諦め、膝を折ったこの荒野で、誰がこの狂った針を戻せるというのか。群衆の沈黙は、共犯と同じだ。流されるだけの無数の人々の中に、世界を救う意思など残されていない。「なら、僕がやるしかないのか」その言葉が唇を突いて出た瞬間、呼吸がふっと深くなった。胸の奥に漂っていた冷たい迷いが消え、代わりに、燃えるような鈍い熱が背骨を駆け上がる。視界の霧が晴れ、静まり返った部屋の中で、自分の鼓動だけがはっきりと、強烈に響いていた。正義という言葉が形骸化し、強いものがすべてを奪う時代。世界を元の形へと正すための唯一の楔(くさび)として、青年は静かに歩き出した。(80話 完)>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。
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