中山峠(なかやまたわ)第10話 『操られる栄光と、這い上がる影——出雲の海と策が織りなす下克上の連鎖』
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2026-05-06 12:02:24
クリックすると拡大します。 永禄三年の暮れ。尼子晴久は備前方面での戦いから銀山を奪還すると、太田の山中を抜け、富田川へと急いだ。海へ逃れる最も確実な航路は、美保関を回り、境水道を抜けて中海に入り、大根島沿いに荒島東赤江へ至る道筋である。だが晴久の一行は、なぜか途中の千酌港に船を寄せ、山を越えて中海へ入る険しい陸路を選んだ。月山富田城は、その荷役の大半を富田川に依存している。それにもかかわらず、敵陣に近い山道をあえて進んだ理由は、ただ一つ。かつて後醍醐天皇を隠岐から脱出させた名和長年の一族が、美保関の磯権を握っていたからであった。鹿之助が率いる北前船の艀は、数に限りがある。名和の海軍に正面から挑めば、たちまち呑み込まれるのは必定だった。さらに千酌は、時化を避ける貿易船の寄港地として格好の港でもある。美保関周辺の遠浅は北前船の吃水にやさしく、斐伊川を遡ることすら不可能ではない。それでもなお、鹿之助が常に千酌へ寄る理由は別にあった。そこには、ひそかに暮らす蝦夷の流民たちがいたのである。この時点で彼はまだ、尼子晴久をどうこうしようという明確な野心を抱いてはいなかった。むしろ自ら先頭に立ち、月山富田城への道を切り開くことに心血を注いでいた。――だが、運命はすでに軋み始めていた。這う這うの体で富田城へ逃げ帰った晴久は、新宮党の国久がいかに和睦を諫めようとも、毛利元就との抗争をやめる気配はなかった。酒席において彼は、銀山での働きを誇らしげに語り、留守を預かっていた家臣たちに自慢を並べ立てた。その言葉を遮ったのは、鹿之助である。銀山から主君を背負い、怯える晴久を守り抜いて城まで連れ帰った最大の功労者は、自分にほかならない――その自負があった。当然、論功行賞の言葉は自分に向けられるものと信じていた。しかし、国久の執拗な和平論に苛立った晴久は、突如として席を立ち、寝所へと引き上げてしまう。寝所には、鹿之助が密かに想いを寄せる佐吉――新宮又兵衛から奪われた妻が、夜伽のため控えていた。それ以上に不可解だったのは、銀山から運び出した生成前の銀の所在である。その行方は、誰一人として知ることができなかった。財宝の分配と、そして今宵だけでも想い人を得たいという歪んだ願い。鹿之助はその両方を胸に、主君の後を追った。やがて寝所において再び口論が起こる。激昂の果て――鹿之助は、その場で晴久を斬り倒した。強い酒を喉に流し込まれた亡骸は、表向き「脳溢血」として処理された。暗殺であった。享年四十七。永禄三年末から永禄四年初頭――すなわち一五六一年正月頃のことである。この凶報に接した国久は、即座に動いた。「晴久は卒中にて養生中」と、城中に触れて回ったのである。新宮党の根城・新宮谷は、各地から集められた武芸者たちの寄り合い所帯であった。尼子の姓すら仮の名に過ぎず、城の重臣の中にも外様の武将が混在している。ここで城主急死が露見すれば、たちまち後継争いが勃発するのは避けられない。しかも国久自身、表向きは晴久から蟄居を命じられている身であった。ゆえに彼は、この混乱を利用し、己の名を上げる機を窺った。一方――毛利元就がこの好機を見逃すはずもない。晴久の死後、鹿之助は富田城の財宝を我が物にせんと動き出す。だが城はすでに毛利の軍勢に囲まれていた。彼は財宝探索を装い、背後の山を越えて塩谷へと脱出し、伯太川を下って中海へ出る。そして千酌の蝦夷民の中へ身を潜め、北方船の到来を待った。やがて若狭の荷揚げ人足に隠岐の流民を加えた一党を組織し、千酌の忠山城に籠もる。富田城奪還を企てたのである。だが、その前に立ちはだかったのは――名和の海軍であった。北方船は大きいとはいえ、数で劣る。鹿之助は籠城を選ぶも、夢はついに叶わず、敗走を余儀なくされる。それから四年後――永禄九年(一五六六年)、毛利軍の総攻撃によって月山富田城はついに落城した。新宮党は敵味方双方から見放され、尼子家は事実上、滅亡への道を歩み始める。晴久の死は、過去の栄光に縛られ、足元を固めきれなかった末の悲劇であった。身内である新宮党の離反と裏切り――それこそが滅びの引き金となったのである。一方の鹿之助。「口八丁手八丁の策士」と呼ばれた男は、主君を討ちながらも、ついに財宝も野望も手にすることはなかった。栄光に操られた主と、影のまま這い上がろうとした臣。そのいずれもが、歴史の闇へと呑み込まれていった。>



