人間の業 ― 綺麗事の裏側 第92話:飯と屋根をもらう前に、一度立ち止まれ(続)

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    人間の業 ― 綺麗事の裏側 第92話副題:キャンセルされた絆と、スマホの向こうの業「もう、したくない」その言葉は、ある夜、同じ屋根の下で静かに落ちた。夫の手が伸びてきたとき、妻は身体を少しずらした。拒絶ではなかった。ただ、「今は違う」と、スマホの画面を見つめたまま呟いただけだった。夫は手を引っ込め、自分のスマホを取り出した。それから三年。同じベッドに寝て、同じ冷蔵庫の中の食材を分け合い、光熱費と家賃はきっちり半々。財布は二つ。会話は「ゴミ出し当番」と「水道代の振込」だけ。セックスは「拒否」ではなく「キャンセル」と呼ばれ、誰も悪くない建前が、部屋の空気を薄く冷やしていった。世間はそれを「自立した関係」「お互いを尊重している」と呼んだ。綺麗事だ。彼女は仕事も「キャンセル」し始めていた。満員電車に乗るのが嫌になった。上司の声がうるさい。成果を求められるのが古い。「自分らしく生きたい」と言いながら、昼過ぎまで布団の中でショート動画をエンドレスに流し、夜は配信者の笑い声を聞きながらカップ麺をすすった。夫も同じだった。正社員を辞め、業務委託と称した不安定な仕事を転々とし、結局はスマホの画面の中で「楽して稼げる」情報を漁るようになった。食うことを止め、寝ることを止めてでも、画面に走る。画面の中では誰も傷つかない。誰も責任を取らない。「拒否」と「キャンセル」は、自分を守る魔法の言葉になった。画面の向こうでは、老いて死期の迫った権力者たちが、破綻した現実から目を背けて言論を弄していた。一方で労働力の不足を嘆き「産めよ増やせよ」と増産を叫びながら、他方ではあふれ出た無価値な若者を「一般社会から切り離し、拘束せよ」と平然と言い放つ。自らは安全な場所で死を待ちながら、矛盾した戯言を撒き散らす老人たち。だが、彼らも若者も本質は変わらなかった。ただ眼前の現実から目を背け、耳に心地よい虚構を貪っているだけだった。ほっしゃんが指摘した「病気の国家」は、こうして静かに完成していく。ある日、口座の残高が底を突いた。家賃の振込日が近づく。冷蔵庫の中は残り少ない。夫は深夜、スマホの通知音に目を覚ました。「短期で高収入」「海外案件、パスポートあれば即」匿名のアカウント。流動するグループ。匿流。「俺、行くわ」夫はポツリとこう呟いた。妻の返事を待つ風では、もちろんない。「なんか、向こうのやつ。連絡あったから。じゃあ」どこへ行くのかも、何をしに行くのかも、何ひとつ具体性のない音の羅列。だが、妻にとってはどうでもよかった。問い返す手間すら惜しく、画面のスクロールを止める理由にはならなかった。妻は画面から目を離さず、短く「ん」とだけ息を吐いた。どこへ行こうが、何になろうが関係ない。引き止めることも、理由を詰じることもしない。関心を持つことすら「キャンセル」された関係。そこに残っていたのは、同じ空間にただ置かれているだけの二つの記号だった。夫は小さなカバンを肩にかけ、ドアを開けた。別れの言葉も、微笑みすら浮かべない。ただ、部屋の空気がわずかに揺れ、そのまま影が薄くなるように静かに消えていった。三年前、同じベッドで背を向けた夜と、何も変わらない冷たいフェードアウトだった。一週間後、夫は東南アジアの湿った路地にいた。約束された「案件」は、特殊詐欺のかけ子だった。部屋から出られない。パスポートは預かられた。「仕事だ。お前が手伝えば早く帰れる」男たちはそう言った。匿流の末端は、顔も名前も流動する。捕まっても情状酌量の材料はいくらでも作れる。妻は日本で待った。最初は「夫の仕事を手伝っている」と自分に言い聞かせた。だが、送金は途絶えた。家賃は払えなくなった。画面の向こうから、別の誘いが舞い込んだ。「海外で配信やチャットをやれば、すぐに有名になれる。月数百〜数千万円も狙えるし、犯罪じゃない。現地での飯も高級ホテルも全部出る」スマホ越しの性やチャットに対して、もはや特別な抵抗感などなかった。周囲の大学生や同世代が当たり前のようにライブ配信で金を稼ぎ、自分の切り売りを「効率的な副業」と割り切る時代だ。誘ってきた男の声は、家出直後の自分より少しだけ優しく、都合のいい夢を見せるには十分だった。彼女はパスポートを握り、空港へ向かった。「これはビジネス。でも、彼とは特別な関係」三年前、同じ屋根の下でセックスをキャンセルしたときと同じ、都合の良い自己正当化だった。しかし、現地で彼女を待っていたのは、煌びやかなインフルエンサーの生活でも、ロマンチックな逃避行でもなかった。案内された車が向かった先は、舗装すらされていない泥と廃棄物に塗れたスラム街だった。室内こそ最低限の配信機材とベッドが置かれていたが、薄い壁の向こうからは怒号と犬の遠吠えが響いていた。やってくる客たちは、画面越しで見かける洗練された男たちとはほど遠かった。香水や化粧品の匂いなど微塵もなく、熱帯の湿気で蒸れた汗と埃、そして歯垢が腐敗したような饐(すえ)えた臭いを撒き散らす野卑めいた、女に飢えた男たちだった。約束された「有名な配信者」などどこにもおらず、ただの安価な労働力、買い叩かれる「人材」として消費されていくだけだった。約束と違う仕事。外出制限。家族が日本で捜索願を出す頃には、彼女はすでに「人材」として消費されていた。そして、この地下業界にはどこまでも「上には上」が存在していた。画面越しに少しばかり人気が出始め、利用価値が上がったと判断されるやいなや、彼女はあっさりと別の組織へと転売された。渡航時に背負わされた最初の渡航費や滞在費という名の「借金」は消えるどころか、転売時の紹介料や新たな管理費名目でさらに上積みされ、重く肩にのしかかった。稼げば稼ぐほど、中間搾取と膨らみ続ける不当な借金によって身動きが取れなくなる構造。彼女はただの「利益を生む商品」として、無機質な帳簿の上で右から左へ流されていくだけだった。男は逮捕された。情状酌量が認められ、軽い刑で済んだ。彼女に残ったのは貯蓄ではなく、取調室の蛍光灯と、重い性病に加え自責の念だけだった。勇ましい言葉だけが先行し、向かい合える材料を誰も持たない。「拒否」「キャンセル」「自分らしく」——綺麗事の裏側で、人は飯と屋根を他人に預け、身体と自由を差し出す。そして、本当の姿を見ようとはしない。妻が日本に戻ったとき、元の家はすでに他人の名前が記されていた。夫は別の案件で再び消えていた。彼女は公的な窓口の前で初めて立ち止まった。遅すぎた。だが、遅すぎない瞬間など、最初から存在しなかったのかもしれない。飯と屋根をもらう前に、一度立ち止まれ。その言葉は、誰の耳にも届かぬまま、湿った風の中に溶けていった。——人間の業は、いつも「楽な道」を選んだ者の後ろから、静かに追いついてくる。>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。
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