人間の業 ― 綺麗事の裏側 第85話:泥の中の覚醒――クルスクから北の大地へ――
画像2枚
2026-09-21 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第85話(前編)副題:クルスクの影――戦わば、その先にスジャ近郊の森は、2025年3月の雪解けで黒く湿っていた。泥と血と、焦げたプラスチックの臭いが混じる。衛生兵のキム・ソンホ(仮名)は、その森の中で三日間、深手を負ったまま仲間の死体の下に潜んでその瞬間を待っていた。北朝鮮から送られた名目上工兵小隊の、唯一と言っても過言ではない生き残りだった。部隊は「将軍様の命」でクルスクに投入された。窓に鉄格子のはまった防護施設にいる限り安全。北鮮出発前、工兵は前線には出さないような噂が飛び交っていた。嘘だった。着任した途端、軍服を北朝鮮のソレからロシア兵のソレに着替えさせられ、自動小*だの携行食だのの装備一色を宛がわれた。簡単な訓練を受け、ロシア兵の前方の塹壕に配置された。将軍様の兵がロシア兵の弾除けとして連れてこられたのは明白だった。ウクライナ軍のドローンと砲弾が降り注いだ夜、40人いた小隊はほとんど消えた。覆いかぶさる戦友の頭部は破片で弾け飛び、その生暖かい血と脳漿がソンホの首筋を伝って泥に落ちていた。呼吸一つ立てるだけで、頭上を旋回するドローンの熱源センサーに探知される。ソンホは死体の肉壁に顔を強く押し付け、口内に広がる鉄の味と腐敗臭を飲み込みながら、死んだフリを続けた。指先一つ動かすことすら、即座に肉片へと変えられる死に直結していた。かつて脳裏に刻み込まれた「将軍様への絶対的忠誠」など、目の前で内臓をぶちまけて転がる同僚の姿を前にしては、何の防具にもならなかった。ただ生き延びたいという醜い本能と、捕虜になった際に課される「再教育」への冷たい恐怖だけが、彼を泥の中に繋ぎ留めていた。三日目の夜明け前、彼らは現れた。正規軍のマークも、ロシアの旗も、北朝鮮の赤星もなかった。迷彩はバラバラで、装備は西側と東側が混在していた。言葉もロシア語、英語、ウクライナ語が入り混じる。だが動きは一つだった。無駄がない。ドローンの音を聞き分ける耳、足音を消す歩き方、負傷者を運ぶときの優先順位の決め方。ソンホを引きずり出した男は、止血帯を巻く手つきが軍隊のそれではなかった。もっと古い何かと、もっと新しい何かが混ざっていた。「動けるか」低い声だった。国籍がわからない。彼らはソンホを「回収」した。助けた、というより。森の奥の仮設拠点で応急処置を施し、次の移動地点へ運んだ。途中、ロシア軍の哨戒部隊と遭遇した。交戦は短かった。相手が気づく前に終わっていた。死体の処理も、痕跡の消し方も、丁寧すぎた。ソンホは彼らの目を見た。将軍様を恐れている自分らとは違い、それはもう人間の目ではなかった。だからと言って恐れを知らない目でもなかった。もっと奥にある、何か別のものを見ている目だった。目的のためなら自分たちも消耗品だと割り切っている目。それが、将軍様の絶対より、更に一層恐ろしく感じた。逃避行は数週間続いた。彼らは民間人を装ったり、時にはロシア側の混乱に乗じたりしながらも、ある方向に向かっていた。非政府系――公式にはどの国にも属さない集団。金で動くわけでも、イデオロギーで動くわけでもないように見えた。ただ「必要だから」動いているように見えた。ポーランド国境を非合法で越えたあと、ソンホは彼らと別れた。最後に男が言った。「お前はもう、どっちの側でもない。忘れるな」それから一年半。2026年秋、北海道・道東。陸上自衛隊第〇普通科連隊の小隊長、安達三尉は、雨に濡れた稜線から双眼鏡を覗いていた。領空侵犯と不審船舶が続いたあと、突如として現れた「不明武装集団」への対処任務だった。政府発表は「武装難民の集団」だった。現場の感覚は違った。彼らは正規軍ではなかった。だが訓練の質が違った。ドローンの運用、夜間の移動、補給の切り方。小規模な交戦で瞬時に、こちらは二人を失った。相手は痕跡をほとんど残さなかった。安達は部下に命じた。「接近するな。観察だ。奴らはこちらを試している」通信が途切れがちだった。電子戦なのか、ただの天候なのか。後方の指揮所からは「過剰反応するな」「平和的解決を優先せよ」という指示が何度も飛んできた。日米合同の情報共有も遅かった。相手の正体がわからないまま、時間だけが過ぎた。その夜、安達は一人の捕虜を見た。重傷を負い、意識が朦朧としている男。日本語は話せなかったが、片言の英語で繰り返した。「Medic… Kursk… they are not army…」安達は言葉の意味をすぐには理解できなかった。だが男の目には、ソンホと同じものが宿っていた。将軍様を超えた何かへの恐怖と、諦め。翌朝、集団は消えていた。残されたのは、精密に破壊された車両と、意図的に残されたメッセージだった。紙切れに英語で一行。「You are still blind.」安達は雨の中で立っていた。自衛隊はウクライナ戦を教訓に訓練してきた。装備も更新された。だが「戦う」ということの本質を、本当に理解しているだろうか。平和ボケと揶揄される日米が、束になって掛かっても――あの目をした者たちに対して、本当に勝てるのか。彼は小隊に戻った。次の命令を待った。戦わば、その先に何があるのか。答えはまだ、泥の中にあった。人間の業 ― 綺麗事の裏側 第85話(後編)副題:法と平和の毒――見えざる敵との暗闘※ロシア(旧ソ連)における敗戦兵・捕虜の苛烈な処遇の歴史(1945年 シベリア抑留)第1章:影の足音クルスクの極寒の泥濘を抜け出してきた朝鮮人民軍の元衛生兵、キム・チョルミンは、東京の郊外にある古い雑木林の脇で震えていた。彼を追撃から救い出し、シベリア、中国極東、そして日本へと逃がしたのは、国家の機構などではない。世界中に潜む暗黒街の物流網と、思想ではなく「純粋な利益と技術」のみでつながる非政府系の工作ネットワーク――通称「トランス・ボーダー」だった。チョルミンにとって、かつて崇拝し恐怖した平壌の「将軍様」は、絶対的な神であった。しかし、自分を運んだこの無国籍グループの静けさと残酷さは、それを遥かに凌駕していた。彼らは国境も、法律も、人間の生命さえも単なるデータとして処理する。「日米の兵士たちがどれほど立派な兵器を持っていようと……」チョルミンは温かい缶コーヒーを握りしめながら、目の前の男に呟いた。「あいつらには勝てない。あなたたちの国は、平和の毒に酔いしれている」男――元自衛官で、現在は陸上自衛隊の精神的裏部隊と呼ばれる情報本部(DI)の協力者、佐伯は無言でタバコに火をつけた。佐伯の目にも、チョルミンの言う「予感」が現実になりつつあることが見えていた。第2章:虚妄の平和その夜、事態は動いた。最初の異変は北の大地で起きていた。北海道の防空の要である**稚内分屯基地のレーダーサイト(第45警戒隊)**で通信とアクティブレーダーが突如全滅。同時に、**奥尻島のレーダーサイト(第29警戒隊)**でも原因不明のシステムダウンと電源供給途絶が発生した。「敵の真の狙いは千歳(第2航空団)のスクランブル機を完全に足止めし、日本の北方防空網の『目と耳』を同時に黙らせることだ」「トランス・ボーダー」は、防空識別圏(ADIZ)に侵入する前に、自衛隊の警戒監視システム(JADGE)の最前線をサイバー攻撃と微細な物理工作で沈黙させたのだ。続いて舞鶴港に停泊中だった護衛艦のシステムがフリーズし、首都圏の送電網の一部が遮断される。正規軍として正面衝突する気など最初からなかった。自衛隊が法律上の「武力攻撃事態」を認定し、出動命令を待つ間に、防空網を***し、社会のインフラを完全に「麻痺」させる計画だった。「防衛省はまだ『原因を調査中』と閣議で報告している段階です」佐伯は潜伏先のアジトで、自衛隊時代の後輩である陸曹長に電話をかけた。「遅すぎる! 稚内も奥尻も落とされた! 敵はもう市ヶ谷のシステム内部にいるぞ!」日米安全保障条約という強大な盾、最新鋭のF-35、イージス艦。それらは「明確な敵」がいることを前提とした巨大な恐竜だった。だが、今迫っているのは、法制度の隙間を潜り抜け、国家の神経系を侵食する「目に見えない毒」だった。第3章:戦わば――深夜、都心の地下駐車場。佐伯とチョルミンの前に、黒い防弾服を着た一団が現れた。彼らは「トランス・ボーダー」の実行部隊だ。手にはロシア製の消音アサルトライフル、胸元には暗号化された小型ドローン端末。「自衛隊が動く前に、我々はすべての鍵を手に入れる」実行部隊のリーダーは静かに言い放った。その時、闇の中から数個の光が走った。「動くな!」鋭い声とともに突入してきたのは、法の手続きを無視して佐伯が独自に動かした、自衛隊の特殊作戦群(SFGp)の有志たちだった。彼らは制服ではなく、無銘の戦闘服を着ていた。「自衛隊が勝てないというなら……」佐伯は引き金に指をかけ、静かに囁いた。「『自衛隊』として戦うのをやめるまでだ」法と平和の枠組みに守られてきた日本で、枠組みを捨てた者同士の、記録に残らない戦争が始まろうとしていた。>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。



