人間の業 ― 綺麗事の裏側 第81話:雪下の天秤 ― 支配の畝と土の祈り
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2026-09-17 20:00:00
人間の業 ― 綺麗事の裏側 第81話(前編)副題:雪国の二つの畑——「ご主人様は誰だ」雪国の二つの畑——「ご主人様は誰だ」羊蹄山の麓、京極のブロッコリー畑は朝霧の中で静かに広がっていた。霧が晴れると、緑の畝が地平線まで真っ直ぐに伸び、観光客が写真に収めたくなるような北海道らしい風景になる。だがその畝の間を歩く人々の表情は、風景ほど綺麗ではなかった。六十代の男が金属の棒を握っていた。町議会議員でもあるその男は、息子二人とともにこの農業法人を実質的に切り盛りしていた。特定技能で来たミャンマーの男女が、番号で呼ばれながら収穫を続けている。「こら、十番。何だその態度。日本に来て仕事したいんだったら、日本のご主人様は誰だ!」男の声が霧を裂いた。胸ぐらを掴まれ、倉庫の外へ引きずり出される若者。後ろから棒で二度叩かれた女性は、その日一日泣き続けた。尻を叩かれ、胸を指で突かれ、帽子を払われて眼鏡を折られた。具合が悪いと言えば「そんな奴いらん。ミャンマーに帰すぞ」。在留カードを出せ、資格を取り消してやると脅された。寮にはネズミが出て、炊飯器にはカビが生えていた。ミスをすれば給料から「弁償」が天引きされた。彼らは名前を持っていた。家族を支えるために、日本は安全な国だと信じて来た。だがここでは番号になり、声を上げれば送り返されると信じ込まされていた。町議会は、一度は閉鎖に追い込まれた農業法人を再開させた議員仲間を、静かに庇った。委員会は欠席し、表立った議論は避けられた。地元で生まれ育った者同士の、言葉にしない結束があった。雄大な自然と真っ直ぐな道だけでは、この土地は語れない。長年の風雪と、補助金という名の保護費が、ある種の特権意識を育てていたのかもしれない。沖縄も北海道も、かつて多額の保護を受けたが、現地の人間がその有難味を素直に感じることは稀だった。本当に平等だと思えるものは、金では買えなかった。同じ北海道でも、石狩の耕作放棄地は違った表情をしていた。元テレビ局の報道記者だった原彩菜は、貯金をほぼ使い果たしてそこに小さな農園を開いた。活動名は雪国あやな。ミニトマトを、子どもがおやつに食べたくなるほど甘く育てるのが目標だった。高価な機械は何度も壊れた。トラクターは到着したその日に不調を起こし、ハウス資材は足りず、排水対策では自ら掘った穴に落ちかけた。ホワイトアウトの吹雪の中で除雪し、籾殻と雑草で土を蘇らせようとした。地元で生まれ育った気質など持たない彼女は、ただ前を向いて突き進むしかなかった。「言うのは簡単だが、実際にやるのは違う」彼女はカメラに向かってそう呟いたことがあった。記者時代に見てきた successe と失敗の両方を知っていたから、派手な理想より泥臭い継続を選んだ。外国人労働者を雇う余裕はまだなかった。一人で、あるいはわずかな手伝いで、土地と向き合った。壊れた機械を前に泣き、翌日またレンチを握った。二つの畑は、同じ北海道という大きな地図の上に並んでいた。一方は、地元の権力と長年の慣習が絡み合った畑。外国人を「雇ってやっている」側の論理が、暴力と威圧を日常に変えてしまった。もう一方は、外部から来た一人の女が、失敗を重ねながらも土地を甦らせようとする畑。前者には「ご主人様」が必要だと信じている人間がおり、後者には主も従もなく、ただ土と雪と機械と向き合う人間がいた。保護されたミャンマーの若者たちは、教会や労組の元で名前を取り戻し始めた。刑事告訴を検討する者もいた。法人側は団体交渉で一部の金銭返還には応じたが、暴 行やセクハラの核心については認めなかった。町議本人は姿を見せなかった。彩菜はニュースを見て、石狩のハウスの中で長い間動かなかった。記者なら取材に走るところだ。だが今の彼女は、壊れた機械の修理と、次の苗の準備に追われていた。遠くの事件を自分の畑に重ねて考える余裕は、正直なところ少なかった。それでも、番号で呼ばれる人々の顔が、頭から離れなかった。北海道で農業を続けるには、確かにこの土地で培われた忍耐と気質が要るのかもしれない。吹雪に耐え、機械を直し、不作の年を乗り越える強さ。だがその強さが、弱い立場の人間を番号に変えてしまうなら、それは強さではなく、ただの支配だ。補助金がどれだけ投入されても、人が人を人として扱わなければ、平等にはならない。習近平の言葉を借りるまでもなく、本当に平等と思える何かは、制度や金の配分ではなく、日常の小さな扱いの中にしか現れない。霧の晴れたある朝、京極の畑では相変わらずブロッコリーが収穫されていた。石狩の畑では、彩菜が壊れた部品を眺めながら次の手を考えていた。二つの畑は互いに見えなかった。だが同じ風が吹き、同じ雪が降る。ご主人様は誰だ、と問われたとき、土は答えなかった。ただ、そこに種をまき、失敗してもまた種をまく人間の手だけが、静かに動いていた。人間の業 ― 綺麗事の裏側 第81話(後編)副題:大地に潜む刻印 ― 孤立の開拓地と剥き出しの情念地平線まで一直線に伸びるアスファルトの上で、泥に塗れた軽トラックが喘ぐようなエンジン音を響かせていた。原田あやかは、油に汚れた作業手袋を外さず、固着したトラクターのエンジンハッチをレンチの柄で力任せに殴りつけた。鈍い金属音が静寂を切り裂く。石狩平野を吹き抜ける風は、春先であっても刃物のように冷たく、皮膚の水分を容赦なく奪い去っていく。東京のテレビ局で報道記者を務めていた頃、彼女がカメラ越しに見ていた「北海道の雄大な大自然」など、ここには存在しなかった。あるのは、油臭い機械の死骸と、来週までに支払わなければならない肥料代の請求書、そして沈黙する黒土だけだ。「また壊したか」振り返ると、日焼けで刻まれた皺に土を詰めたような顔の老人が立っていた。近隣で代々農家を営む本間だ。呆れを含んだ視線は、壊れた機械ではなく、あやかの爪の間にこびりついた汚れに向けられている。「機械ってのはな、力で従わせるもんじゃない。この土地と同じだ。内地から来た奴はすぐ腕力で押そうとする」あやかは返事をせず、かじかんだ指先でスパナを握り直した。折れるたびに立ち上がり、破産寸前の底から這い上がる覚悟――それだけが、この過酷な気候の中で生存を許される唯一の通貨だと彼女は知っていた。優しさや同情など、最初の最初の猛吹雪で凍りついて消えてしまう。数十キロ離れた同じ石狩管内の別の農園では、異国の言葉が怒号にかき消されていた。「ここはどこだと思ってる! 日本のご主人様は誰だ!」降り下ろされた竹棒が空気の皮膚を切り裂き、ミャンマーから来た若い実習生の背中に鈍い音を立てて命中する。収穫作業の手が止まるたび、暴言と不必要な接触が彼女たちの身体を苛んだ。農場主の胸に渦巻いていたのは、孤立無援の開拓地で代々積み上げられてきた苛烈な選別意識だった。この厳しい土地で生き残ってきた自負が、いつしか歪んだ支配欲へと変貌し、持たざる者、弱い者へと向けられていた。この寒冷な大地において、人間は二種類に分かれる。厳しい自然と対峙する中で己の精神を研ぎ澄まし、破滅の淵から何度でも這い上がる強靭さを養う者。そして、その苛烈さに呑まれ、内なる暴力を弱い者へと撒き散らす者だ。夕刻、議会の古い木造庁舎には、煙草の煙がどんよりと淀んでいた。かつて閉鎖の危機に瀕した農業法人を救うため、規律の逸脱を目をつぶって庇い立てした議員たちが、沈黙の中で茶を啜っている。過疎と貧困の恐怖を知る者同士の絆は、時に法や倫理を容易く踏みにじる。かつて中央から手厚く支払われた保護費や補助金が、誰の心も満たさなかった理由を彼らは知っていた。上からの施しは、この土地の凍てついた現実を1ミリも溶かさなかったからだ。必要なのは哀れみでも金でもなく、対等な人間として土に立つための「決定的な何か」だった。あやかは修理を諦め、軽トラのボンネットに背をもたれかけた。遠く夕闇の向こうで、真っ直ぐな道が地平線の闇へと吸い込まれていく。豊穣の恵みとは、ただ土から湧き出るものではない。自然の猛威に屈せず立ち上がり続ける人間の血と汗、そして時に生じる醜悪な支配の暗部――そのすべてを飲み込んで、作物は青々と葉を広げる。都市に暮らし、その恵みを享受する者たちが対峙すべきは、綺麗事に飾られた絵画のような北海道ではない。凍える土の上で狂気と背中合わせに生きる人間の、あまりに剥き出しな情念そのものなのだ。風が強まり、あやかの頬を強く打った。彼女は静かに息を吐き出し、深く泥を踏みしめた。(81話 完)>この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。



