人間の業 ― 綺麗事の裏側 第65話:砂漠と大国の蜜 ― 渇きVS自由

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    人間の業 ― 綺麗事の裏側 第65話(前編)副題:ファハドが愛した蜜砂漠の風が、サナアの郊外で干からびたシドルの木々を揺らしていた。イエメンの男、ファハドは朝の光の中で蜂蜜の瓶を眺めた。シドルハニー。神の樹から採れる黄金の液体は、眠気を消し、体に火を灯す。戦いで疲れた兵士も、空腹の農民も、一口で目が覚める。だが、その甘さの裏には渇きがあった。シドルの木は水を貪欲に吸い上げる。地下水が枯れ、村の井戸が干上がり、子どもたちが遠くの泉まで歩かされる。自然が壊れていくのを、ファハドは知っていた。それでも人々は木を守り、蜜蜂を飼う。女たちは家の奥で蜂蜜を瓶詰めし、外の世界には滅多に出ない。視線を交わすことすら、慎みとされる。男が女に声をかけ、女が男に近づく――そんなことは、ここではほとんど起きない。秩序が、静かに保たれている。ファハドは時折、ラジオで遠い国のニュースを聞いた。アメリカという場所では、女が自由に男に声をかけ、男が女を誘う。平等という綺麗事が、そこには溢れているという。だが、その綺麗事の裏側で、何が起きているのか。彼は想像することしかできなかった。――カリフォルニアの倉庫街。夜の闇に、若い女の声が響いた。「ねえ、ちょっと手伝ってくれない?」三度の前科を持つ男、マーカスは振り返った。わずか数ヶ月で釈放され続けた体は、まだ出所の匂いが残っていた。女は微笑み、倉庫の鍵を持っていた。知人の場所だという。彼はついていった。中に入った瞬間、ドアが閉まり、拳が飛んだ。女は床に倒れ、彼は容赦なく痛めつけ続けた。閉ざされた空間と、執拗な危害。数時間後、警察が踏み込んだとき、女は泣きながらこう言った。「私が声をかけたんです。ごめんなさい……」。反省の弁は、誘った側から漏れた。マーカスは再び牢に戻った。22年の刑期が言い渡された。一般的にこのような事件の場合、出所までの時間は捜査に当たった警官ですら首をかしげるほど短かい。社会・裁判官は「更生」を信じ、綺麗事を繰り返す。――アメリカで最も危険とされる地区の外れ。荒野に、十七歳の少年が立っていた。ガールフレンドからのメッセージ。「来て。話があるの」。彼は走った。愛していたから。だが、待っていたのは元カレだった。十八歳の仲間を連れ、凶器を構えて。女の子は、元カレにフラれたあとで「やっぱり好きだった」と気づかされ、言われるままにボーイフレンドを呼び出した。乾いた破裂音が二度。少年は砂に沈んだ。警官が女の子を諭した。「こんなことをしてはいけない」。だが、彼女の目には反省の色がなかった。育った環境が、すでに心を干からびさせていたのかもしれない。女の子から匂わせた恋愛感情が、引き金を引いたはずなのに。――ファハドは蜂蜜の瓶を閉じた。シドルの甘さは、覚醒をもたらすが、土地を痩せさせる。アメリカの自由は、人を目覚めさせるが、欲望の闇を深くする。女が声をかけ、男が応える。その瞬間に生まれる業は、砂漠の渇きより残酷だ。文明が進むほど、綺麗事の表層は厚くなり、裏側の腐りは見えにくくなる。イエメンでは、女が男に近づくこと自体が稀だ。不平等という鎖が、かえって事件の種を干上がらせているのかもしれない。だが、その鎖もまた、別の業を生む。女の声が聞こえない家、水を奪う木々、静かな秩序の中で、誰かが息を潜めている。人間は、どちらを選んでも、業から逃れられない。自由の名の下に血が流れ、伝統の名の下に水が枯れる。綺麗事の裏側で、砂漠も都会も、同じように乾いている。ファハドは瓶を棚に戻し、夜の風に耳を澄ませた。どこかで、また誰かが誰かに声をかけている音が、聞こえる気がした。(65話 後編へ続く)人間の業 ― 綺麗事の裏側 第65話(後編)副題:荒野の囁き夜の風がシドルの葉を揺らす音は、どこか遠い国の硝煙の匂いや、閉ざされた扉の軋みに似ていた。ファハドは暗闇の中で立ち尽くし、自分の手がかすかに震えていることに気づく。翌朝、郊外の井戸には、いつものように水を求める女たちの姿があった。黒いアバヤに身を包んだ彼女たちは、目を合わせることもなく、静寂の中で水汲みの順番を待つ。その静寂は秩序の証であり、同時に抑圧の沈黙でもあった。ファハドの妹、レイラもその中にいた。彼女は水桶を抱え、俯いたまま家へと戻っていく。「遠くの泉も、もうじき干上がる」不意に声をかけてきたのは、老いた蜂蜜採りのアハメドだった。彼の顔には深いうねりのような皺が刻まれている。「シドルの木を切り倒せば水は戻る。だが、蜂蜜がなければ俺たちは生きていけない。ファハド、お前はどうする? 自由を求めて村を出るか、この渇いた秩序の中で死ぬか」ファハドは答えられなかった。頭の中に浮かぶのは、ラジオの向こうの世界――カリフォルニアの倉庫街で倒れた女や、荒野の砂に血を流した十七歳の少年の姿だ。自由という名の欲望が野放しにされた場所では、人間はあまりにも易々と誰かを傷つける。だが、このイエメンの地で保たれている「秩序」もまた、ゆっくりと、しかし確実に人々の命と心を干上がらせているのだ。その日の夕刻、村で小さな異変が起きた。レイラが家から姿を消したのだ。棚からなくなっていたのは、ファハドが昨日眺めていたシドルハニーの瓶と、わずかな水筒だった。ファハドは胸騒ぎを覚え、沈みゆく太陽の光を追いかけるように荒野へ走った。村の外れ、渇ききったシドルの巨木の木陰に、彼女は座り込んでいた。「どうしてここへ来た」ファハドが息を切らして問うと、レイラはゆっくりと顔を上げた。顔を覆う布の隙間から見えた彼女の瞳には、かつて見たこともない強い光が宿っていた。「声を出したかったの」レイラは絞り出すように言った。「誰もいない場所でなら、私は誰かを呼べる。名前を呼んで、返事を待つことができる。この国の外では、女が自分の足で歩き、自分の声で愛を囁くのでしょう? それがどれほど恐ろしい結末を生むとしても……私は一度でいいから、誰かに声をかけてみたかった」彼女の足元には、開け放たれた蜂蜜の瓶があった。甘く濃厚な香りが、乾いた砂漠の風に乗り、静かに漂っていく。ファハドは言葉を失った。アメリカの少女が男を死に追いやった「声」と、妹が絞り出したこの「声」。欲望の引き金となる破壊的な自由と、暗闇の中で叫ばれる生への欲求。表と裏、光と影。それらは全く異なる姿をしながらも、本質的には人間が抱える逃れられない「業」そのものだった。「水は戻らないわ、お兄ちゃん」レイラは呟いた。「でも、蜜は甘い」ファハドは妹の隣に膝をつき、遠くの地平線を見つめた。文明がどれほど進もうと、どんな規律で縛ろうと、人間の渇きが癒えることはない。自由の果ての流血も、伝統の陰の沈黙も、等しく同じ闇を抱えている。風が吹き抜け、シドルの木々がざわめいた。ファハドは妹の手からそっと蜂蜜の瓶を受け取り、蓋を閉めた。完璧な答えなど、この地球のどこにも存在しない。ただ、この乾いた世界で、互いの業を抱えながら生きていくしかないのだと、彼は深く息を吐き出した。(65話 完)>※完全オリジナル作品です。二次創作ではありません。#人間の業 #歴史の循環 #心理小説 #綺麗事の裏側この話が気に入ったら、ランキングバナーをポチッと押していただけると励みになります。
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