知佳の美貌録「血脈の輪郭と、歪んだ傾斜」
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2026-08-16 20:00:00
知佳の美貌録副題:献身の果ての孤立と、奪われた平穏久美の頭の中には、いつも濃い霧が立ち込めていた。通勤途上で起きたあの惨劇以来、世界は右側に少し傾き、言葉は舌の裏側に張り付いてうまく出てこない。車椅子の車輪を手で押し進めるたび、麻痺した右半身が鉛のように重く揺れた。だが、混濁する意識の奥底で、幼少期の記憶の欠片だけは恐ろしいほど鮮明に繋がっていた。母・好子が生まれ育った北陸の城下町。金沢の旧市街、かつて髪結い店が建ち並んでいたという古い通り。近所の神社の境内にあった保育園の風景と、その片隅で暗い噂とともに語られていた女衒(ぜげん)の中村家が営む髪結い店の影――。父方の吉川家は、郊外の町で自転車屋を営み、町議会議員まで務めた地元の顔役だった。それに引き換え、夫・橘家の出自は複雑だった。かつて湿地帯の集落にあり、広大な敷地を持ちながらも通れる道は他人の借り物で、一歩間違えれば行き場を失うような不安定な土地。隣接する地区の影と、行政の雇用対策によって市職員となり、背伸びをして生きてきた成り上がりの血筋だった。学校関係者の息子との縁談を諦め、堅実な市職員の肩書に惹かれて嫁いだ先は、土壇場になるとまともな判断力も才覚も持ち合わせない男たちの愚行の巣窟だった。久美が病床で死線を徘徊している間、夫が頼れるのは事故でボロボロになった妻の智恵だけだった。考えあぐねた久美は、自宅に残された書類一式を、夫に命じ病院まで持ってこさせた。看護師が巡回してこない時間を見計らって麻痺した指先でめくったファイルの中から見つけたのは、一枚の保険契約時の説明書。原本の契約書はいくら探しても見当たらない。恐る恐る地元の労働金庫の窓口へ電話をかける。言語障害でうまく回らない舌を必死に動かし、事故の状況と現在の身体状態を伝えた。電話口の担当者は、奇跡的に久美の詰まる言葉を丁寧に汲み取ってくれた。「……お申し出いただいた内容と契約内容を照らし合わせました。間違いないようですので、しかるべき診断書さえ提出していただければ、規定上、死亡と同等の扱いとして三千万円が支払われるはずです」事故の相手方である損保会社は、いまだに久美の症状を重篤な障害と認めず、病院への支払いも一部を除いて棚上げにしたままだ。事情を察した病院側は、付き添いをつけることを条件に特別に久美の外出を許可した。身体を斜めに傾け、車椅子の上の人となった久美は、自ら労働金庫の窓口へと向かった。夫に任せれば、支払われた保険金など一瞬で食い尽くされることが目に見えていたからだ。だが、その場所へ足を踏み入れたとき、久美の脳裏に静かな衝撃が走った。事故で不自由になった体を押し進めてたどり着いたその労働金庫の所在地こそ、まさに遠い昔、母の記憶の中で女衒の中村が髪結い店を構えていた、あの場所そのものだったのだ。かつて女たちの運命を呑み込んだ血脈の原点から、今度は事故に打ちのめされた己を救うための三千万円が導き出されようとしている。残酷なまでの因果の巡り合わせに、久美は言葉もないまま車椅子の手すりを強く握りしめた。しかし、見舞いと称して保険金が下りる瞬間を狙っていた愚かな夫の耳に、その話が届くのにそう時間はかからなかった。夫は損保会社から先行して振り込まれた損害一時金を密かに引き出すと、兄の次男を連れ立って競馬場へと直行した。馬の足に賭けた勝ち馬投票券のお金はあっという間に消え失せ、すってんてんになると、次に次兄は夫を抱き込んだ。そして事故の影響で身動きの取れない久美を勝手に保証人に仕立て上げ、消費者金融から莫大な借金を重ねていった。病状は益々悪化し、病院の待合室には耐えがたいほどの重苦しい空気が立ち込めた。絶望の淵に立たされた久美は、終いに「死んでやる」とまで口にし始める。追加の保証人書類を前に、身内たちは次々と背を向けた。次男の嫁である准看護師も、母・好子の従妹までもが、関わりを恐れて退院や入院の保証人になることすら拒絶したのだった。血縁という名のもとに集まっていた者たちが去っていく中、最後までその場に残されていたのは、久美の歪んだ車椅子と、ただ一人その狂気を見届けていた知佳だけだった。知佳は無言でペンを取り、保証人欄に己の署名を静かに走らせた。病院の窓の外には、北陸の冷たい雨に濡れる浅野川の緩やかな流れと、久美の記憶に眠る金沢の古い街並みが、どこまでも静かに広がっていた。(血脈の輪郭と、歪んだ傾斜 完)>



