拐かし (かどわかし) 第十三話

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2024-08-15 05:55:15
親類の家に不幸があったという理由で、孫兵衛は楼主から翌朝までの休みをもらった。 親類の不幸とあっては楼主も反対できないし、夜見世の繁忙もすでに盛りを過ぎていた。 あとは、客と遊女が床入りする時間である。 二階廻しの仕事は、別の若い者に任せた。 そ~っと下足箱から新次郎の草履を取り出し、裏合わせにし懐に押し込んだ。 あとは吉原妓楼 海老屋を飛び出し、大門を抜け出るや、日本堤を浅草方面に向けてひたすら足を急がせた。 山谷掘の外れの桟橋に荷舟が係留されていた。 荷舟の上で棹を手に忠八がじりじりしながら待っていた。「どうしたい、おそいじゃねえか。 来ないのかと思ったぜ」「すまねえ。 新次郎がいろいろ駄々をこねて、手間取っていた。 さあ、出発だ。 できるだけ急いでくれ」 孫兵衛は荷舟に乗り込むと、用意してあった衣装に着替え、腰に刀を差した。 着替えを済ますのを見届けて忠八が荷舟の中ほどに載せてある筵を、顎をしゃくって指し示した。「すまねえが、これを頭からかぶっていてくんな。 人目につかねえにこしたことはない」孫兵衛は言われるまま荷舟に横たわり、筵をかぶった。 忠八は棹を使って桟橋から舟を離した。 舟が桟橋から離れると、櫓に切り替え、隅田川に乗り出していった。 行き先は、長崎橋のたもとである――。 ゴーン、ゴーンと八ツ (午前二時ごろ) の鐘が鳴った。 指定した時刻である。 孫兵衛と忠八はじっと荷舟にうずくまっていた。 何度か舟がそばを通り過ぎたが、荷舟は橋の下の暗がりに停泊していたため、気づかれた様子はなかった。「雲が出て来たな。 これじゃあ、帰りは提灯の灯りがなくては無理だぜ」 忠八が空を見上げてつぶやいた。 煌々と輝いていた月はすでに分厚い雲に隠れている。 孫兵衛も空気が湿り気を帯び、冷たくなってきたのを感じた。「雨にならなければいいが」「雨になると大変だぜ。 蓑も笠も用意してないから、濡れ鼠になる。 それにしても、山鹿屋の連中は来ないじゃないか」「まあ、待て。 さきほど、奉公人ふたりが店に戻った。 長谷川町 俳諧宗匠の家に確かめに行き、『新次郎さんは泊ってはおりません。 とっくに、お帰りになりました』 という回答を得たはずだ。 奉公人から様子を聞かされ、清兵衛はせがれがさらわれたのは間違いないと考えるはずだ。 動転しているから、頭は働かない」 そのとき、山鹿屋の潜り戸があいて、提灯の灯りが通りに出てくるのが見えた。 足音が長崎橋のたもとに達すると、提灯が対岸に向けて大きく右に一回、続いて左に一回、まわされた。 孫兵衛が対岸の暗がりに潜んでいると思い込んでいたのだろう。 続いて、対岸に向けて叫んだ。「さん」「かわ」橋の下から、孫兵衛が応えた。 思いがけないところから応答があったので、手代らしきふたりはギクッとしていた。「よし、ちゃんと来たな。 川っぺりにおりてきな」 そう命じながら、孫兵衛は御高祖頭巾をかぶった。 手拭いで頬被りをした忠八が棹を操って、舟を寄せていく。 またもや、ドシンと岸にぶつかった。 不手際をののしりたいところだったが、仲間割れを見せてはならない。 孫兵衛はグッと我慢した。「金は持ってきたか」「へい、ここに、持ってきております」 ふたりはそれぞれ手にした重そうな布袋を示した。 孫兵衛は袋に手を伸ばしたが、ふたりはすぐには渡そうとしない。 清兵衛から言い含められているのであろう。 最後の抵抗を示す。 そのうちのひとりが 「若旦那の無事がわかるまでは」 殊勝な言葉を口にした。「心配するな。 金を受け取ったら、すぐにでも監禁場所から出してやる。 四ツ (午前十時ころ) までには、間違いなく店に戻ってこよう。 ただし、てめえらが妙な真似をすると、新次郎は戻ってこないぜ。 つべこべ言うと……」 孫兵衛は腰に刀にてをかけた。 気圧されたように、ふたりが布袋を渡す。 袋を手にした孫兵衛は、ふたりを前にし、中身を改めようかと思ったが、人質を取られている以上、山鹿屋が誤魔化しをやるはずなく、それよりなにより、一刻も早く立ち去りたかった。「よし。 確かに八百両は受け取ったぞ。 約束は約束だ、新次郎は返してやる。 朝まで、待て」 孫兵衛は忠八に合図を送った。 棹を使って舟を岸から離すと、忠八はすぐに櫓に切り替え流れに乗せた。 ギイ、ギイと櫓がきしみ始めた。>