『ありがとう』作戦は想像以上の効果を発揮し、スーパー店員の中野さんに俺を印象付けることに成功した。「いつも『ありがとう』と言っていただいて、すごく礼儀正しい方ですね」ということは、俺のことをちゃんと覚えている、それも好印象を持って、ということに他ならない（もしかしたら『ちょっと変わった人』と思われているかもしれないが）。　レジで精算するときに「ありがとう」とひとこと言うだけでこんなに効果があるんだな。このまましばらくは『ありがとう』作戦を続行し、中野さんの反応を見ながら世間話でも投げかけてみるとしよう。次のステップ「ひと言ふた言、挨拶できる関係になる」も見えてきたぞ。　また、意識して通っていると、いろいろなことが分かってきた。レジ係の制服は２種類あり、ひとつが社員専用。もうひとつの、ブラウス、パンツ、エプロン姿で頭に三角巾をかぶっているのがパート職で、中野さんはパートでの勤務だった。　また、このスーパーは21時までの営業なので、パートは朝早くから終業後22時くらいまでの中で、勤務時間を選んで勤務しているようだ。　中野さん以外は顔ぶれがころころ変わるのに、彼女は始終見かける。ほとんどのパートが扶養の範囲内で勤務している中で、彼女は扶養のことを気にせずガンガン働いているということだ。普通の主婦のパートというよりは、しっかり稼がないといけないシングルマザーの可能性も高いな。　10月の半ば、『ありがとう』作戦を始めて1カ月半くらいになったときのことだ。中野さんのレジに並び、商品の読み込みをしてもらっていると、「あれ、今日はビール、いつものと違うんですね」と彼女から話しかけてきた。　まさか予期していなかったので一瞬詰まりそうになったが、なんとか「そうなんです。たまには違うのを飲んでみようかなと思って」と返した。　たった一言のやり取りだったが、めちゃくちゃうれしい。それに、俺がいつも買ってるビールの銘柄まで覚えてくれてたんや。まぁ、いつも酒とツマミとミネラルウォーターくらいしか買ってないけどな。　ゆっくりだが、一歩一歩着実に中野さん攻略へのステップを上っていると感じる。焦らず急がず、でもチャンスと見たらグッと踏み込む、そんな姿勢で臨んでいこう。　前号でお伝えしたとおり、中野さん攻略へのステップは次の通りだ。ステップ１　まずは顔を覚えて存在を認識してもらう。ステップ２　ひと言ふた言、挨拶できる関係になる。ステップ３　レジ以外のところでも短い世間話ができる関係になる。ステップ４　こちらに興味、関心を持ち、話したいと思ってもらえる。ステップ５　連絡先を交換する。　まずステップ２まではなんとかなった。　次のステップ３はかなりハードルがあがる。軽い挨拶程度なら全然大丈夫だが、世間話までとなるとなかなか難しい。　過去の経験から、こういうときに有効なのが『まちぶせ』作戦だ。店の外で偶然を装って出会い、「こんにちは」「今からお帰りですか。お疲れさまでした」などと声をかけるだけなのだが、大きな２つの問題点がある。　一つは、中野さんが帰る時刻が決まっているわけではないので、まちぶせのしようがないということ。二つ目は、本当に偶然だと思わせないとストーカー行為と認識されてしまうことだ。うーん、なかなか難しいな。　そんなある日、午後６時ごろに客先からの直帰でスーパーＡに立ち寄った。　今日は中野さん、いるかな？　と見渡していると、いたいた中野さん。あれ？　三角巾とエプロンをせずに、ブラウスとパンツ姿だ。同僚のパートさんに「お先に失礼します」と声をかけている。今から帰るのか？　制服のまま、社員通用口ではなく一般の出入り口から出ていこうとする中野さんの後を、思わず追いかける。たまたま彼女が帰るタイミングに出くわすなんてそんなにあるわけじゃない。これを何かのチャンスに繋げなければ。先回りして『まちぶせ』作戦はどうだ？　いや、もし中野さんが電車通勤なら駅でばったり、みたいなことができるかもしれないが、制服のままで帰っていることからその可能性は低いだろう。店を出た中野さんは従業員の駐輪場の方に向かった。俺も迷わず自分の自転車を出しに行く。よし、ならば『尾行』作戦だ。気づかれないように彼女の後を追いかけて自宅を突き止めよう。　でも、マジで警察のお世話になる可能性があるな。ストーカー規制法にバッチリ当てはまってるやん。絶対に無理をしないと自分に言い聞かせていたら、中野さんが自転車を押して出てきた。幸いすでに辺りは真っ暗なので、道路でスタンバっている俺の姿には気づかないはずだ。距離を置きながら慎重に彼女の後を自転車で追跡する。なんかドキドキするなあ。ストーカー行為というよりは、スパイ活動、探偵活動をしている気分だ。　結構なペースで自転車を走らせる中野さんを追いかけること約15分、やっと彼女が自宅に到着。立派なタワマンの駐輪場に消えていった。　中野さん、こんな高そうなマンションに住んでるんや。まぁ、上品な雰囲気とはマッチしているが、スーパーの店員とはイメージが合わないなぁ。　自宅がわかったからと言って、何か具体的な行動をするわけじゃないが、中野さんについてまた一つ理解することができた。さあ、次の一手はどうしたもんだろう。　そうこうしているうちに仕事がピークになり、しばらくスーパーに足を運べていなかった。中野さん元気にしてるかな。　久しぶりにＡを訪れて、中野さんの姿を探す。どこにいるのかな？　出勤してるかな？　あれ？　中野さん？　おそらく中野さんなんだろうが、髪の毛が金髪になっている。眉毛もだいぶ細くなってるし。　少し近づいて名札を確認すると、確かに中野さんだ。前に少し眉を剃ったときも気にはなっていたが、俺がしばらく顔を出せないでいた間に激変してるやないか。　彼女にいったい何があったのか？　もしかしてよからぬ男と付き合っているんじゃないか？　心配でたまらない。