2018.4.20(金)
浅井さんの両手が、黒谷さんのお尻に回った。
桃をいただくように、手前に引き寄せる。
意図を理解したのだろう、黒谷さんは素直に腰を送った。
股間を、浅井さんの口元に近づける。
浅井さんが頭をもたげ、黒谷さんの裂傷に顔面から飛びこんだ。
「ひぃ」
黒谷さんの喉笛が鳴った。
考えてみれば……。
あれだけの膣液を零しながら、性器への直接刺激はこれが始めてだったのだ。
待ち望んでいた感触なのだろう。
しかし、首をもたげた体勢の浅井さんの口では、望んだほどの刺激が得られないようだ。
黒谷さんの腰が、自ら前後に動き始めた。
「浅井さん、そのまま頭を床に落として」
万里亜が浅井さんの頭部を抱え、床に据えた。
首の置物を扱うような手つきだった。
「黒谷さんは、そのまま性器を浅井さんの顔まで下ろすの」
黒谷さんが足指をにじらせ、わずかに前進した。
股間が、浅井さんの顔面に着座する。
「そしたら、黒谷さんが動くの。
自分が気持ちいいように」
「はい」
黒谷さんは、和式トイレを使う姿勢のまま、腰を始動した。
最初は遠慮がちだったが、たちまちギアがあがった。
浅井さんの鼻先に、自らの陰核を練りつけていた。
浅井さんの細く尖った鼻梁が、うねりながら倒れ、皺を刻む。
「亜衣ちゃん、追いこんであげて」
そうだ。
浅井さんの性器には、亜衣の手首までが埋もれているのだ。
亜衣は床に片手を着くと、膣内に突きこんだ手を、もみ洗いするように前後に動かした。
泡立つ膣液が、音を立てた。
「ひぃぃぃぃぃ」
桃をいただくように、手前に引き寄せる。
意図を理解したのだろう、黒谷さんは素直に腰を送った。
股間を、浅井さんの口元に近づける。
浅井さんが頭をもたげ、黒谷さんの裂傷に顔面から飛びこんだ。
「ひぃ」
黒谷さんの喉笛が鳴った。
考えてみれば……。
あれだけの膣液を零しながら、性器への直接刺激はこれが始めてだったのだ。
待ち望んでいた感触なのだろう。
しかし、首をもたげた体勢の浅井さんの口では、望んだほどの刺激が得られないようだ。
黒谷さんの腰が、自ら前後に動き始めた。
「浅井さん、そのまま頭を床に落として」
万里亜が浅井さんの頭部を抱え、床に据えた。
首の置物を扱うような手つきだった。
「黒谷さんは、そのまま性器を浅井さんの顔まで下ろすの」
黒谷さんが足指をにじらせ、わずかに前進した。
股間が、浅井さんの顔面に着座する。
「そしたら、黒谷さんが動くの。
自分が気持ちいいように」
「はい」
黒谷さんは、和式トイレを使う姿勢のまま、腰を始動した。
最初は遠慮がちだったが、たちまちギアがあがった。
浅井さんの鼻先に、自らの陰核を練りつけていた。
浅井さんの細く尖った鼻梁が、うねりながら倒れ、皺を刻む。
「亜衣ちゃん、追いこんであげて」
そうだ。
浅井さんの性器には、亜衣の手首までが埋もれているのだ。
亜衣は床に片手を着くと、膣内に突きこんだ手を、もみ洗いするように前後に動かした。
泡立つ膣液が、音を立てた。
「ひぃぃぃぃぃ」
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/04/20 07:32
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昨日は何の日
『地図の日(最初の一歩の日)』。
1800(寛政12)年4月19日(新暦5月12日/今から218年前)。
伊能忠敬が、蝦夷地の測量に出発しました。
そのとき忠敬、すでに55歳。
ここに至る経緯については、ほんとに感心します。
忠敬は、17歳で下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の酒造家、伊能家に婿入りします。
妻は、4つ年上の21歳。
前夫との間に、3歳の男の子がいました。
稼業は傾いてたそうですが、忠敬の才覚で盛り返し……。
49歳で、念願の隠居。
ここから単身江戸へ出て、天文・暦学の勉強を始めるのです。
まさに、50の手習いでした。
忠敬が弟子入りした師匠は、当時30歳の高橋至時。
20歳も年下の師匠から学んだ忠敬は……。
地球の大きさを求めるプロセスの中で、日本の正確な地図を描くことが必要という結論に辿り着いたのです。
そしてついに、55歳で測量の旅に出立。
旅立つ前には、一定の歩幅(70cm)になるよう、歩き方を訓練したそうです。
そう。
歩幅を数えて測量していったのです。
気が遠くなる話です。
誤差を少なくするため、複数の人間が同じ場所を歩き、歩数の平均値を取ったそうです。
忠敬が亡くなったのは、73歳のとき。
当時としては、長命です。
死の数ヶ月前まで、地図の作成を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしてたそうです。
1821(文政4)年、忠敬の死から3年後、ようやく『大日本沿海輿地全図』が完成しました。
忠敬の師匠・至時(忠敬より先に亡くなってました)の息子・景保と、忠敬の孫・忠誨(ただのり)らが登城し……。
徳川家斉の前で、地図を広げて上程したそうです。
ほんとうに尊敬できる人というのは、こういう人のことをいうのでしょうね。
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2. 手羽崎 鶏造- 2018/04/21 00:31
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そういえば、亡くなった父に聞いたことがあります。
旧陸軍では、2歩で1,5m4歩で3mになる歩き方を
訓練で習得した話。
両国の江戸博物館でしたか、忠敬作成地図の
展示を見た覚えがあります。
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3. Mikiko- 2018/04/21 08:03
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歩幅の目安
↓身長×0.45だそうです。
http://www.faq.healthcare.omron.co.jp/faq/show/4195?site_domain=jp
2歩で1.5メートルなら、1歩の歩幅は75㎝。
75㎝÷0.45=166.7㎝。
昔の軍隊の平均身長はこの程度だったでしょうから……。
実に理にかなった設定値ですね。
↓千葉県香取市に『伊能忠敬記念館』があります。
http://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/index.html
しかし、あまりにも遠い。
銚子の手前です。
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4. 手羽崎 鶏造- 2018/04/21 09:24
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続きです。
ちなみに、旧日本軍で、そんな科学的な
ことが徹底されていた訳ではないとも
父は申してました。(科学的ならあんな
愚かな戦さはしなかっただろうとも)
父は心臓を患っており、高等工業学校生
(今の工学部)だったこともあり、通信兵部隊に
徴収され、上官が珍しく理論家であったとのこと。
その部隊の後輩に妙にヘンな奴がいて後の音楽家
三木鮎郎であったとも話していましたっけ。
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5. Mikiko- 2018/04/21 12:33
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日本陸軍
明治のはじめ、兵隊を集めるのに白米で釣りました。
「銀シャリが腹一杯食える」という謳い文句。
漬物程度のオカズで白米を大量に食べた兵隊たちは……。
ことごとく脚気になりました。
しかし陸軍は、白米ばかり食べさせたことによるビタミン不足が原因とは認識できませんでした。
新潟に出来た練兵所でも脚気が流行しましたが……。
「新潟の気候が悪いせいだ」と、移転していきました。