2018.4.8(日)
「う」
浅井さんの骨張った尻たぶに、腱の筋が走った。
「スローダウン」
万里亜の指が始動する。
揃えた指先が、注射痕を揉みこむように、小さなオーバルを描いた。
見た目は地味な動作だが、最も効果的な攻め手であることは、浅井さんの反応に現れていた。
「ひぃぃぃ」
喜悦が喉笛となって噴きあげた。
踏ん張った膝が、カタカタと笑い出す。
「ほら。
気持ちよくなってないで、おしっこでしょ。
おしっこ」
そう言いながら、万里亜の指先は、浅井さんの恥丘への深度を増した。
指の脇に、潰れた恥丘の肉がはみ出ていた。
「みんなに見られながら、おしっこするのよ。
ほら」
黒谷さんの顔上に仁王立ちしたときの浅井さんは、明らかに加虐的な表情だった。
黒谷さんに対する、一種の攻撃性をあからさまにしていた。
しかし今や、そのベクトルは消失してしまったようだ。
むしろ、衆人環視のもと、排尿をしようとしている自分に溺れているかに見えた。
万里亜はおそらく、その性癖を見抜いていたのだろう。
「い、いく……」
「ダメー」
万里亜の指が、浅井さんの恥部から離れた。
剥き出されたそこは、まさしく“恥部”以外の何ものでもなかった。
指の腹に潰されていた小陰唇の襞が捲れ、大陰唇にひしゃげて貼りついていた。
そして、その歪んだ襞の収斂する位置には、皮を脱ぎ落とした陰核が、三角豆のように尖っていた。
まさに、イク寸前だったのだろう、ビクビクと鼓動さえしていた。
「いゃあぁぁぁ」
「何がイヤなの?」
「い、いじって」
「イッちゃったら、肝心のおしっこを忘れちゃうでしょ」
浅井さんの骨張った尻たぶに、腱の筋が走った。
「スローダウン」
万里亜の指が始動する。
揃えた指先が、注射痕を揉みこむように、小さなオーバルを描いた。
見た目は地味な動作だが、最も効果的な攻め手であることは、浅井さんの反応に現れていた。
「ひぃぃぃ」
喜悦が喉笛となって噴きあげた。
踏ん張った膝が、カタカタと笑い出す。
「ほら。
気持ちよくなってないで、おしっこでしょ。
おしっこ」
そう言いながら、万里亜の指先は、浅井さんの恥丘への深度を増した。
指の脇に、潰れた恥丘の肉がはみ出ていた。
「みんなに見られながら、おしっこするのよ。
ほら」
黒谷さんの顔上に仁王立ちしたときの浅井さんは、明らかに加虐的な表情だった。
黒谷さんに対する、一種の攻撃性をあからさまにしていた。
しかし今や、そのベクトルは消失してしまったようだ。
むしろ、衆人環視のもと、排尿をしようとしている自分に溺れているかに見えた。
万里亜はおそらく、その性癖を見抜いていたのだろう。
「い、いく……」
「ダメー」
万里亜の指が、浅井さんの恥部から離れた。
剥き出されたそこは、まさしく“恥部”以外の何ものでもなかった。
指の腹に潰されていた小陰唇の襞が捲れ、大陰唇にひしゃげて貼りついていた。
そして、その歪んだ襞の収斂する位置には、皮を脱ぎ落とした陰核が、三角豆のように尖っていた。
まさに、イク寸前だったのだろう、ビクビクと鼓動さえしていた。
「いゃあぁぁぁ」
「何がイヤなの?」
「い、いじって」
「イッちゃったら、肝心のおしっこを忘れちゃうでしょ」
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/04/08 08:43
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今日は何の日①-1
『忠犬ハチ公の日』。
ハチ公については、説明するまでも無いでしょう。
で、不思議なのは、なぜ4月8日が『忠犬ハチ公の日』なのかと云うこと。
ハチは、1923(大正12)年11月10日、秋田県大館市(当時は北秋田郡二井田村)に生まれます。
東京帝大の上野教授宅(現・渋谷区松濤)に貰われて来たのが、1924(大正13)年1月14日。
生後、2ヶ月ですね。
幸せな犬生が約束されてたはずですが……。
1925年(大正14年)5月21日、上野教授は大学で脳溢血を起こし、そのまま亡くなってしまいます(享年52)。
上野と暮らせたのは、わずか、1年と4ヶ月です。
上野が亡くなった後も、ハチは、毎日渋谷駅に上野を迎えに行ったわけです。
そのハチが亡くなったのは、1935(昭和10)年3月8日早朝。
渋谷川に架かる稲荷橋近くの路地の入口で、死んでいるのが発見されました。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2018/04/08 08:44
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今日は何の日①-2
さて。
これまで出て来た日付に、4月8日はありません。
それではなぜ、4月8日が『忠犬ハチ公の日』なのでしょう?
ハチ公の銅像が建てられたのが4月8日と書いてるサイトさんもあります。
でも、これは違うようです。
初代の銅像は、1934年(昭和9年)4月21日に設置されました。
ハチ公が亡くなる1年前です。
除幕式には、ハチ公本人も出席したそうです。
しかしその銅像は、太平洋戦争の金属供出で失われてしまいます。
銅像まで鋳つぶして戦争を続けようとした軍部には、憎しみさえ覚えます。
現在の銅像が設置されたのは、1948年(昭和23)年8月15日。
いずれの銅像も、4月8日とは関係ありません。
毎年4月8日の『忠犬ハチ公の日』には、『忠犬ハチ公慰霊祭』が行われてます。
この慰霊祭の第1回が行われたのが、1936(昭和11)年4月8日。
ではなぜ、命日の1ヶ月後が選ばれたかですが……。
単に、サクラの季節に行いたいということだったようです。
82年前の東京は、今ごろがサクラの季節だったんですね。